徳川頼房は、家康の十一男で末子です。

1603年8月10日〜1661年7月29日、享年59才


頼房は御三家水戸徳川家の初代です。


家康三男の二代将軍秀忠より24才も年下であり、

三代将軍家光(秀忠次男)の叔父になりますが、

わずか1才上です。

家康次男の松平秀康の長男忠直、次男忠昌、三男

直政は、頼房の甥になりますが、頼房よりも年上

です。

頼房は、家康十男の頼宣の同母弟です。

当初、家康は、秀忠の将軍家、九男義直の尾張家、

頼宣の紀州家を御三家と考えていたようです。

徳川頼房か、松平頼房にするか、未定でした。

秀康の存命中の越前松平家は、制外の家とされ、

御三家とは別格扱いでした。

秀康の死後、秀忠は尾張家や紀州家と同格と見ら

れるのを嫌って、将軍家を別格として、水戸家を

追加し、尾張、紀州、水戸を御三家としました。

これで、頼宣が早死にした場合のスペアだった頼房

は、ちゃっかり兄二人と同じ御三家の初代になりま

した。ただし、石高は尾張の61.95万石、紀州の

55.5万石に対して、水戸は半分未満の25万石です。

官位も尾張と紀州の大納言に対して、水戸は中納言

でした。

そして、頼房は、ちゃっかり、父の家康や十人の兄

よりも多くの子供を作りました。


頼房 享年59才

11男15女(夭折の男子3人、女子5人)


父の家康 享年75才

11男5女(夭折の男子2人)


信康(家康長男)享年21才

1男2女(夭折の男子1人)


秀康(家康次男)享年34才

6男1女(夭折の男子1人、女子1人)


秀忠(家康三男)享年54才

4男5女(夭折の男子1人)


忠吉(家康四男)享年28才 子供無し


信吉(家康五男)享年21才 子供無し


忠輝(家康六男)享年92才

長生きしたが、25才で改易されたので、子は男子

1人のみ。その男子は18才で自害した。


松千代(家康七男)享年6才 子供無し

仙千代(家康八男)享年6才 子供無し


義直(家康九男)享年51才

1男1女(夭折の子女、無し)


頼宣(家康十男)享年70才

3男5女(夭折の男子1人、女子3人)


家光(秀忠次男、3代将軍)

1604年7月17日〜1651年4月20日、享年48才

5男1女(夭折の男子2人)


水戸徳川家初代の頼房は、ちゃっかり、家光より

11年も長生きしたことになります。



天守閣代わりにされた三階櫓。太平洋戦争末期の

水戸空襲で焼失。その後、再建されず。