海軍における飛行機の運用は水上機で始まりました。

貨物船に数機の水上機を搭載します。

そして、目的地の近くまで行き、水上機をデリックで

海上に下ろします。

水上機は海面を滑走して、空中に舞い上がります。 

任務を終えた水上機は海上に着水し、母船(母艦)に

近づいて、デリックで船上(艦上)に収容されます。


航空機射出機(カタパルト)が開発され、水上機を母

艦から発艦できるようになりました。しかし、着艦で

きないので、収容方法は変わりません。


車輪付き飛行機を運用する航空母艦(空母)が登場す

ると、発着時の事故が増えました。

水上機でも事故はありましたが、狭い飛行甲板に発着

する艦上機の事故は増えました。


空母は、艦上機の発艦時、着艦時に風上に向かって全

力直進します。発艦距離、着艦距離を抑える為です。

大半の艦上機は発動機が一つの単発機です。

プロペラ機の場合、プロペラは操縦席から見て時計

回りに回転するので、何もしないと、直進より左に

ズレます。戦争記録フィルムの着艦事故を見ると、

右舷にある艦橋に衝突する事故は少なく、左舷から

海に落ちる事故が多いです。

着艦時は、波の為に艦尾が上がって衝突する事故や

航跡に落ちる事故もあります。

発艦時は発動機の不調などで、上昇できずに海面に

突っ込む事故もあります。


空母は作戦行動中や演習中に事故の為に発艦や着艦

を止めることはできません。

軽空母でも1万トン級巡洋艦並みの排水量や全長が

あるので、小回りが効きません。事故対応は小回り

が効く随伴駆逐艦に任せることにしました。

事故機の搭乗員の救助が第一ですが、可能であれば、

機体の収容もしました。機体が収容できれば、事故

原因の究明にも役立ちます。

この機体を引き上げる作業が、俗に「トンボ釣り」

と言われました。


1941年4月、第一航空戦隊、第二航空戦隊、第四

航空戦隊(龍驤のみ)で、第一航空艦隊が編成され

ました。

その後、8月8日に翔鶴、9月5日に春日丸(のちに

大鷹と命名)、9月25日に瑞鶴が竣工し、10月時点

では、下表のような編成になりました。

12月8日の太平洋戦争開戦後の12月22日に瑞鳳の

同型艦祥鳳が竣工し、第四航空戦隊に加わり、特設

空母の春日丸が第4航空戦隊から外れて、連合艦隊

附属になりました。



龍驤の担当は駆逐艦汐風、瑞鳳の担当は駆逐艦三日

月、鳳翔の担当は夕風でした。

第7駆逐隊は特型Ⅱ型、第23駆逐隊は睦月型、第3

駆逐隊は峯風型、秋雲は陽炎型でした。


ハワイ真珠湾攻撃の空母機動部隊の随伴駆逐艦は、

秋雲を除き、第18駆逐隊の霞、霰、陽炎、不知火、

第17駆逐隊の浦風、磯風、濱風、谷風と入れ替え

になりました。