家康を基準にすると、


秀忠は子(二代将軍、三男、1親等)


家光は孫(三代将軍、秀忠の次男、2親等)


家綱は曾孫(四代将軍、家光の長男、3親等)


綱吉は曾孫(五代将軍、家光の四男、3親等)


家宣は玄孫(六代将軍、家光の三男綱重の長男の

綱豊、将軍世子をなって家宣と改名、4親等)


家宣の弟 清武(越智松平家初代)

               家継の死去時点で54才


家宣の男子

長男 夢月院(1699年生まれ、享年1才、夭折)

次男 家千代(1707年生まれ、享年1才、夭折)

三男 大五郎(1708年生まれ、享年3才、夭折)

四男 家継(1709年7月3日生まれ、1713年4月2日

に征夷大将軍=七代将軍に就く、1716年4月30日に

死去、享年8才、夭折)

五男 虎吉(1711年生まれ、享年1才、夭折)


七代将軍の家継は享年8才で、子供はいません。

家継が死去した時点で、父(家宣)の弟である越智

松平清武は54才でしたが、家臣の越智氏の養子に

なったので、八代将軍候補になりませんでした。

このため、秀忠系の将軍候補はいません。


尾州藩(名古屋藩)

家康

義直(家康九男、初代藩主、1親等)

光友(義直長男、家康孫、二代藩主、2親等、

正室は家光長女の千代姫)

綱誠(光友長男、正室の子、家康曾孫、三代藩主、

3親等)

吉通(綱誠十男、家康玄孫、四代藩主、4親等)

五郎太(吉通長男、五代藩主、5親等、享年3才)

継友(綱誠12男、家康玄孫、六代藩主、4親等)

宗春(綱誠20男、家康玄孫、七代藩主、4親等)


紀州藩(和歌山藩)

家康

頼宣(家康十男、初代藩主、1親等)

光貞(頼宣長男、家康孫、二代藩主、2親等)

綱教(光貞長男、家康曾孫、三代藩主、3親等)

頼職(光貞三男、家康曾孫、四代藩主、3親等)

吉宗(光貞四男、家康曾孫、五代藩主、3親等)


1716年4月30日に七代将軍家継が享年8才の亡く

なった時点で、尾州藩主は6代目の継友、紀州藩主

は吉宗でした。継友は藩主になって4年目、吉宗は

藩主になって12年目でした。


継友は、家康の玄孫で4親等です。

吉宗は、家康の曾孫で3親等です。


したがって、吉宗の方が東照神君と称された家康に

近い(血が濃い)と判断されました。


また、吉宗の方が藩主経験が長く、幕府の運営にも

適していると考えられたようです。


将軍職や藩主になれるか、否かは、

①夭折しない、

②兄弟よりも長生きする、

③幸運に恵まれる、

によると思います。笑い🤣


五代将軍綱吉の長女鶴姫が、吉宗の長兄綱教の正室

になりました。そのため、綱吉は紀州藩邸を訪れま

した。

1697年4月11日、頼方(のちの吉宗)は次兄頼職

とともに綱吉に御目見して、越前国丹生郡内で各々

3万石の大名に取り立てられました。これが、幸運

の第一歩でした。

1705年5月に長兄綱教、8月に父光貞、9月に次兄

頼職が相次いで亡くなり、頼方は22才で紀州藩主に

なり、綱吉から偏諱を受け、吉宗と改名しました。