父方の祖父が倒産させるまで、材木屋を経営して

ました。

私の曽祖父は、六代吉右衛門でした。


過去帳によれば、兵作の子が万吉です。

万吉の子が初代吉右衛門です。

暖簾分けしていただいて、大番頭から店主になり

ました。

漢字2文字の兵作と万吉は、店主でなく、番頭で

した。

徳川吉宗が八代将軍の時、万吉の子が店主になり、

漢字4文字の「吉右衛門」に改名しました。

過去帳で分かることは、死亡時の名前、死亡年月

日、享年だけで、改名前の名前は分かりません。

享年44才の四代吉右衛門を除くと、兵作から私の

父まで、享年が76〜92才と、徳川家康の享年75才

を上回る長寿の家系です。


初代から吉右衛門を襲名し、六代吉右衛門の時に

明治維新(1868年)を迎えました。

その頃は、蝦夷地三都の一つである商業都市江差

で材木屋をしてました。

あとの二都は、松前藩の城下町松前と幕府の箱館

奉行所があった箱館(維新後は函館)です。


西南戦争(1877年)の三年後、六代吉右衛門は

「これからの北海道(維新後の蝦夷地)は開拓使

役場が置かれた札幌が中心地として最も発展する

だろう」と考え、江差から札幌に移住しました。


札幌市を東西に分け、南から北へ流れる創成川の

左岸(北15条西1丁目1番地)に店と住居を構え

ました。材木屋なので、水運を利用できる川に面

した土地(60間=109m四方の正方形)です。

1間四方=1坪なので、3600坪になります。


六代吉右衛門の跡を継いだのが祖父の逸作です。

逸作が酒好きで商売センスに欠けると考えた六代

吉右衛門は逸作の七代目襲名を認めませんでした。


六代の死後、逸作は、日露戦争の勝利で日本領に

なった南樺太の広大な山林を買いました。

植林した木が成長して、建材として伐採するまで

に20年くらいかかります。

1929年(世界大恐慌)3月、父の姉が旧制札幌

市立女学校(現在の札幌東高校)を卒業し、現在

の北洋銀行に就職しました。

1927年の金融恐慌、世界大恐慌の影響で、材木

屋も不景気でした。

1930年の夏、南樺太で大規模な山火事が起き、

買った山林は全焼しました。借金だけが残り、

不景気と重なって、材木屋は倒産しました。


倒産後、祖父の逸作は働かないで、朝から酒を

飲み、時々、暴れることもあったようです。

現在の北海道新聞の宅配をしながら、父は現在

の札幌工業高校、弟は現在の札幌南高校を卒業

しました。父の姉が学費を出しました。


父の兄は、祖父に顔も行動も似ています。祖父

と違っているのは酒を飲まないことです。材木

屋が倒産して跡継ぎになれません。材木屋が繁

盛していた時のツテで北海道庁に中途採用され

ました。しかし、勤務時間が終わるとパチンコ

屋に行き、閉店まで居るような男でした。


太平洋戦争は、日本の大敗北で終わりました。

私が生まれた時、苦労した祖母は他界していま

した。伯父は北海道庁、伯母は北洋銀行、父は

国鉄、叔父は北海道新聞社で働いていました。


祖父の逸作は存命してました。

材木店創業時の将軍が徳川吉宗だった、代々、

吉右衛門を襲名していたことから「吉行」と名

付けられました。


逸作は、私が小1の6月14日に亡くなりました。


私の長い学生生活と大学教員の体験として、①凝

った名前、②有名人をパクった名前、③画数の多

い名前は、良くないですね。

幼稚園や小学校では、手書きで氏名を書くことが

多いです。日常使わない漢字や画数の多い漢字の

名前の子供は、国語嫌い、勉強嫌いになりやすい

です。そのため、学業成績は悪い。①と③

有名人をパクった名前は「龍馬という名前なのに

やる事がセコい」、「小百合だけど、吉永小百合

とは大違い」など、冷やかしやイジメの対象にな

りやすいです。②


①、②、③は、結果的にいわゆる「名前負け」し

た者になります。


名前が「吉行」で良かったと思ったのは、海外旅

行をしたことも無いのに国際大学院大学の助教授

として赴任した時です。

自己紹介の時、漢字で吉行、英語で Yoshiyuki と

大きな字で書きました。

意味を訊かれて「Go to Luck」、Yoshi=Luckと

書きました。それで、ニックネームはYoshi にな

り、その日から同僚に溶け込めました。

海外は、2年の国際大学院大学勤務、2カ月の短

期海外研修を含めて、148回行きました。

自己紹介が必要な場合、Yoshi=Luck は非常に

有効で、好意的な対応を受けました。