3月15日8時30分〜9時、時代劇専門チャンネルで、
久しぶりに「歴史を訪ねて 日本の城」を見ました。
北海道・東北編で、八つの城が紹介されました。
①五稜郭(函館市)
1854年の日米和親条約による箱館(明治維新後に
函館と改名)港の開港に伴い、艦砲が届かない場所
に幕府箱館奉行所を移転し、築造されたのが五稜郭
である。1864年6月に奉行所が移転したが、全体の
完成は1866年である。オランダ人から西洋軍学を
学んだ武田斐三郎の設計した星形の日本初の西洋式
城廓である。
1868年の大政奉還による明治維新後の10月26日に
榎本武揚らの率いる旧幕府軍が五稜郭を占領、榎本
を総裁とする蝦夷共和国樹立を宣言した。
明治新政府は、冬の官軍派遣は宿営や補給が困難で
あるので、翌春から攻撃することにした。
蝦夷地は北海道、北蝦夷地は樺太と改名された。
1869年3月末から官軍(新政府軍)の大軍が派遣さ
れた。多勢に無勢で、5月18日に榎本らが降伏し、
五稜郭は新政府軍に明け渡された。
築造時からの遺構は、土塁、石垣、水堀、兵糧庫で
ある。
再建造物は、奉行所、板庫、土蔵である。
近くにある五稜郭タワーの展望フロアーから見下ろ
すと、星形であることは一目瞭然である。
数回行きました。初回は中3の修学旅行の時です。
なお、番組では紹介されなかったが、五稜郭を見下
す北方3kmに西洋式砦「四稜郭」(東西約100m、
南北約70m)がある。
②弘前城(弘前市)
1603年に弘前藩初代藩主津軽為信が計画して築造
工事が始まったが、死亡したので、二代藩主信枚が
1611年に完成させた。
この時の5層の天守閣は、1627年に落雷で焼失し
た。
しかし、度重なる冷害による飢饉などによる財政難
から天守閣は再建されなかった。
1810年の石高見直しで、弘前藩は10万石になり、
三層の隅櫓を改築したのが、現在の天守閣である。
明治維新前に建造された天守閣のある城は、全国に
12あるが、北海道・東北地方では唯一である。
天守閣のほか、辰巳櫓、未申櫓、丑寅櫓、与力番所、
三の丸追手門と東門、二の丸南内門と東内門、北の
郭の亀甲門、水堀が残っている。
中学の修学旅行で初めて行きました。その後、2回
行きました。
番組では紹介されてないが、亀甲門に近い仲町地区
の武家屋敷の町並みは、文化庁の重要伝統的建造物
群保存地区に指定されている。一部の武家屋敷は公
開されています。
弘前藩が10万石になった時、弘前市に隣接する黒石
市に分家が1万石に加増されて大名になり、黒石藩
が成立しました。
③久保田城(秋田市)
1600年の関ケ原の戦いの時、常陸国水戸54万石の
領主だった佐竹義宣は西軍に味方し、徳川家康の本
拠・江戸城を窺う姿勢を見せた。
1602年、家康は水戸54万石から秋田205,800石に
減封・国替を命じた。
番組が秋田城ではなく、久保田城とした理由は、秋
田市には奈良時代の733年に築城された秋田城があ
り、混同されないようにしたと思う。
久保田城は1604年に完成した。石垣がなく、土塁
だった。また、天守閣の無い城だった。
その理由の第一は、54万石から20万石余りの61.9
%の大幅な減封による財政難である。
第二の理由は、石垣や天守閣をやめることで、徳川
将軍家への恭順を強く示す為だった。
一国一城令があったが、幕府は大館城と横手城の所
有を認めた。
久保田城、大館城、横手城は、各1回ずつ行きまし
た。
久保田城は秋田城と改名されるが、築城当時からの
遺構は土塁と水堀の一部で、建物は御物頭御番所だ
けであった。築城400年記念事業で、模擬本丸新兵
具隅櫓と本丸表門が再建された。
④盛岡城(盛岡市)
豊臣秀吉の奥羽仕置きが決定し、南部藩初代南部
信直が1598年に着手し、子の利直(2代藩主)が
継続し、孫の重直(3代藩主)の1633年に全ての
工事が完了しました。
盛岡城は北上川と中津川の合流点の上流側の河岸
段丘に築かれ、二つの川に挟まれています。
合流点から上流へ本丸、二の丸、三の丸が築かれ
ました。しばしば、豪雨で石垣が流されるなど、
難工事だったようです。
現在の遺構は、本丸跡、本丸石垣、本丸と二の丸
を結ぶ御廊下橋、二の丸の石垣、三の丸と淡路丸
の石垣、馬場のあった腰曲輪跡、唯一の建物であ
る彦御蔵、時鐘、内堀(鶴ケ池、亀ケ池を含む)
である。一度だけ行きました。
支藩は八戸藩2万石があります。
また、遠野城に城代を派遣してました。
⑤仙台城(仙台市)
伊達政宗が1601年に築城しました。政宗が築いた
のは本丸と西の丸で、二代藩主忠宗が二の丸、三
の丸を1639年までに完成させました。62万石の
居城として、明治維新を迎えました。
広瀬川の河岸段丘を利用した平山城です。築城時
から天守閣はありません。幕府の警戒心を和らげ
るために天守閣を建造しなかったようです。
1873年の廃城令で本丸建物が除却され、1882年
の火事で二の丸が焼失し、1945年7月10日の空襲
で大手門と脇櫓、巽門が焼失したので、築城時から
の遺構は石垣、土塁、堀だけです。
1967年に大手門脇櫓が再建され、大手門再建計画
が進められています。
一度だけ行きました。
⑥山形城(山形市)
1356年に羽州探題となった斯波兼頼の子孫が最
上川流域を領して最上氏を称した。
最上義光は1600年の関ケ原の戦いで徳川家康に
味方し、西軍の上杉と戦った。その功で57万石
の大名になり、本丸、二の丸、三の丸が三重の
堀と土塁で囲まれた輪郭式の平城を築城した。
これが山形城である。1622年、最上氏は御家騒
動で改易になった。代わって譜代大名の鳥居忠政
が22万石で入封し、1636年には三代将軍家光の
異母弟保科正之が20万石で入封した。
1643年に保科正之は23万石の会津若松藩主に
なった。その後、山形藩は5万石から15万石の
譜代や親藩大名が入れ替わり藩主になった。
築城時からの遺構は、堀、土塁、石垣である。
1991年に二の丸東大手門櫓が再建された。
山形城は1回行きました。
⑦会津若松城(会津若松市)
1384年に蘆名氏(相模の三浦一族)が東黒川館
を築いた。1450年頃に黒川城になり、蘆名氏の
本拠地だったが、1598年に米沢の伊達政宗が蘆
名義広(養子、佐竹義宣の弟)を追放し、本拠地
とした。
豊臣秀吉の停戦命令に従わなかったので、奥羽仕
置きで、政宗は米沢に戻された。
1592年、秀吉は蒲生氏郷に92万石を与えて築城
を命じた。氏郷は黒川を若松と改名し、若松築城
とともに城下町を整備した。
1593年に天守閣も完成し、会津若松城が概成し
た。
築城当時からの遺構は、石垣、土塁、内堀(堀)
である。
再建造物は、5層5階の層塔型天守閣(鉄筋コン
クリート造、1965年)、鉄門、干飯櫓、南走長
屋、本丸と二の丸を結ぶ廊下橋である。
また、廃城時に城外へ移転された麟閣(茶室)が
城内に戻されている。
会津若松城は1回行き、会津若松市に2泊しまし
た。2日目は喜多方市の蔵のある町並みを見学し
て、喜多方ラーメン🍜を食べる日帰りでした。
1598年、氏郷の子・秀行は家中騒動で、92万石
から18万石へ減封、宇都宮に国替されました。
同年、上杉景勝が越後春日山から120万石で入封
しました。
しかし、景勝は関ケ原の戦いで西軍に味方したの
で、120万石から30万石に減封され、米沢に移さ
れました。
1601年に蒲生秀行が再入封しますが、1627年に
嫡男忠郷が継子無く、没したので伊予松山に国替
になりました。
代わって伊予松山藩主加藤嘉明が40万石で入封し
ました。嫡男の明成が相続し、西出丸と北出丸な
どを増築しました。
1643年、加藤明成は失政と御家騒動の責任を問
われて改易されました。
同年、三代将軍家光の異母弟保科正之が山形から
23万石で入封しました。家光は四代将軍家綱の後
見役を正之に命じ、家名を養子先の保科から松平
に変更させました。
以後、会津若松城は、会津松平家の居城になり、
戊辰戦争を迎えることになります。
⑧白河小峰城(白河市)
1340年〜1369年に白河結城宗広の嫡男親朝が
小峰ケ岡丘陵に築城した。16世紀初度から白河
結城家の本拠地となっていたが、1590年に豊臣
秀吉の奥羽仕置で没収された。白河領は蒲生家や
上杉家の会津領の一部になり、城代が置かれた。
1627年、丹羽長秀の嫡男長重が棚倉から10万7
千石で入封し、初代白河藩主になり、城郭の大改
修と城下町整備をした。
丹羽家以降、榊原家、本多家、奥平松平家、結城
松平家、久松松平家、阿部家の7家21代の白河藩
主の居城となった。1866年に阿部家が棚倉に移さ
れ、白河領は幕府領で二本松藩預かりとなった。
1868年の戊辰戦争の白河口の戦いで、奥羽越列藩
同盟軍は新政府軍に敗れ、白河城は落城した。
この結果、列藩同盟から脱落する藩が増え、新政
府軍の優位を決定付けた。
丹羽長重の大改修当時の遺構は、本丸周辺の石垣
や堀の一部です。1991年に三重櫓、1994年に前
御門、2012年に道場門が復元され、往時の姿を
偲ばせています。
残念ながら、まだ、白河城に行ったことはありま
せん。
行ったことないので、写真で我慢します😅