太平洋戦争開戦時の巡洋艦戦隊


その1では、第一戦隊から第九戦隊を紹介しました。

第一戦隊から第三戦隊は、戦艦戦隊でした。

第四戦隊から第八戦隊は、重巡洋艦戦隊でした。

第九戦隊は、重雷装艦(軽巡洋艦改造)2隻でした。

北上は5,500トン級巡洋艦の第一グループ(球磨型)

の三番艦、大井は四番艦でした。


日本海軍は開戦時に練習巡洋艦を含めて20隻の軽

巡洋艦を保有していました。また、戦時中に5隻が

建造されて就役しました。したがって、太平洋戦争

に参加した軽巡洋艦は合計25隻になります。


第16戦隊 軽巡洋艦球磨、長良

球磨は球磨型の一番艦、長良は5,500トン級巡洋艦

の第二グループ(長良型)の一番艦


第18戦隊 軽巡洋艦天龍、龍田

最古参の天龍型の2隻でした。


第21戦隊 軽巡洋艦多摩、木曾

多摩は5,500トン級巡洋艦の第一グループ(球磨型)

の二番艦、木曾は五番艦


第一水雷戦隊旗艦 軽巡洋艦阿武隈(長良型六番艦)


第二水雷戦隊旗艦 軽巡洋艦神通(5,500トン級巡

洋艦の第三グループ川内型の二番艦)


第三水雷戦隊旗艦 軽巡洋艦川内(川内型一番艦)


第四水雷戦隊旗艦 軽巡洋艦那珂(川内型三番艦)


第五水雷戦隊旗艦 軽巡洋艦名取(長良型二番艦)


第六水雷戦隊旗艦 軽巡洋艦夕張(試作艦)


第四潜水戦隊旗艦 軽巡洋艦鬼怒(長良型三番艦)


第五潜水戦隊旗艦 軽巡洋艦由良(長良型四番艦)


第二遣支艦隊旗艦 軽巡洋艦五十鈴(長良型五番艦)


第六艦隊旗艦 軽巡洋艦香取(香取型一番艦)


第四艦隊旗艦 軽巡洋艦鹿島(香取型二番艦)


南遣艦隊第二護衛隊 軽巡洋艦香椎(香取型三番艦)


軽巡洋艦香取型は、練習巡洋艦として計画、建造さ

れた。1940年に完成した香取と鹿島は日本海軍最

後の練習艦隊を編成し、海軍兵学校、機関学校など

の士官候補生を乗せて日本、朝鮮、台湾、中国を航

海した。1941年に完成した香椎は練習航海の機会

が一度も無かった。

香椎は南遣艦隊旗艦だったが、開戦直前に重巡洋艦

鳥海が旗艦になったので、第二護衛隊に回された。


戦時中に完成して就役した軽巡洋艦は5隻でした。


阿賀野型軽巡洋艦 阿賀野、能代、矢矧、酒匂

老朽化した5,500トン型軽巡洋艦に代わる水雷戦隊

旗艦として計画、建造されました。

一番艦阿賀野は、空母を基幹とする第三艦隊の護衛

兵力の第十戦隊の旗艦になりました。しかし、日米

の空母対決は1942年10月26日の南太平洋海戦から

1944年6月19日のマリアナ沖海戦まで無く、その間

に阿賀野は米潜水艦の雷撃を受けて沈没しました。

二番艦能代と三番艦矢矧は、戦艦と重巡洋艦を基幹

とする第二艦隊に編入されました。

レイテ沖海戦で、能代は戦艦大和、武蔵、長門など

の第一グループを護衛する駆逐艦群の旗艦を務めま

した。

矢矧は戦艦金剛、榛名などの第二グループを護衛す

る駆逐艦群の旗艦を務めました。

四番艦酒匂は佐世保工廠で完成後、練習部隊の第11

水雷戦隊旗艦になりました。瀬戸内海にB29による

機雷投下が始まると、舞鶴港近辺に避難して無傷で

敗戦を迎えました。その後、外地からの引き揚げ者

の復員船として利用されました。復員任務完了後、

1946年7月1日のビキニ環礁で行われた原爆実験の

標的艦なり、翌日、沈没しました。


大淀型軽巡洋艦 一番艦大淀

二番艦仁淀は建造中止になったので、同型艦はあり

ません。

大淀型軽巡洋艦は、潜水戦隊旗艦用に計画、建造さ

れました。

太平洋戦争開戦時の連合艦隊旗艦は、戦艦長門でし

た。1942年2月12日に戦艦大和が旗艦になり、武

蔵就役後は武蔵が連合艦隊旗艦になりました。

しかし、日米の多数の戦艦が戦う艦隊決戦は起こり

そうもなく、連合艦隊司令部は戦艦を空母部隊の護

衛に使うことにしました。

軽巡洋艦大淀が最後の連合艦隊旗艦になりました。



連合艦隊司令部が横浜市日吉の慶応大工学部に移転

した後、大淀はエンガノ岬沖海戦、礼号作戦、北号

作戦に従事しました。大きな被害を受けることなく

呉軍港に帰還しました。その後、呉付近の瀬戸内海

で待機してましたが、1945年7月28日の米空母機

の空襲で、多数の直撃弾や至近弾を受けて沈没しま

した。