トラック島(現在のチューク諸島)は、トラック環礁

の総称であり、太平洋戦争中は、日本海軍の一大根拠地でした。

第一次世界大戦後、内南洋(赤道以北の南洋諸島)は

日本の委任統治領になりました。





トラック島は、太平洋東正面(マーシャル諸島やギルバート諸島)と南東方面(ソロモン諸島やニューギニア)への兵站を担っていました。

日本の空母機動部隊も、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦では、トラック島から出撃し、トラック島に帰投しました。



南東方面の拠点(ラバウル)への補充航空機、燃料、食糧などもトラック島経由で送られました。


1944年2月17日〜18日、レイモンド・スプルーアンス大将が率いるアメリカ海軍空母機動部隊が、トラック島を空襲しました。航空戦の指揮はマーク・ミッチャー中将が執りました。


アメリカ海軍空母機動部隊は、大型空母5隻、軽空母4隻、戦艦7隻、巡洋艦10隻、駆逐艦28隻で編成されており、9隻の空母の艦載機は約600機でした。

(真珠湾攻撃をした日本海軍空母機動部隊は空母6隻に378機を搭載してました。)


2月17日の早朝、F6F戦闘機の大群が来襲した。

日本側の迎撃は立ち遅れ、飛び立った機は十分な高度が取れないまま撃墜されました。飛び立てなかった機は地上で撃破されました。

ラバウル方面などへの補充機も撃破されました。


連合艦隊の主力である空母、戦艦、重巡洋艦などは、トラック島から引き揚げてました。

トラック島泊地には、軽巡洋艦、駆逐艦、駆潜艇などの小艦艇、工作艦、油槽船、輸送船がいました。

早朝からの9次に及ぶ空襲で、飛行場その他の施設と

在泊艦船、在島航空機は甚大な被害を受けました。

18日午前中も3次の空襲をして、米機動部隊は引き揚げた。

連合艦隊司令部は、トラック島空襲の予兆を把握していながら、主力部隊だけを退避させ、裏方的な任務を

していた特務艦(工作艦や給油艦)、特設艦船(民間から徴用した油槽船や輸送船)、その護衛部隊には何も知らせませんでした。取り残されて、空襲を受けた部隊から連合艦隊司令部へ怨嗟の声が上がりました。

味方にも空襲が近いことを知らせず、司令部と主力部

隊が逃亡したので、当然だと思います。

トラック島守備隊は、それまでは米軍の長距離爆撃機が偵察に飛来する程度で、本格的な空襲を受けた経験がなく、油断してました。


日本軍の被害

艦船の被害

沈没

軽巡洋艦3隻、駆逐艦4隻、小艦艇3隻、輸送船(油槽船を含む) 33隻

損傷

飛行艇母艦秋津洲、駆逐艦4隻、潜水艦2隻、工作艦明石、駆潜艇1隻、その他4隻

航空機の被害

270機(被撃墜70機、地上撃破200機)

地上撃破された半数は、補充用の最新の零戦52型でした。

その他の被害

燃料1万7千トン、糧食2千トン

人的被害

戦死7千人


アメリカ軍の被害

大型空母イントレピッド 小破

航空機損失 25機

戦死 40人


日本軍への影響

トラック島が兵站基地機能を失くしたので、ラバウ ル所在航空機をトラック島に撤収させました。

大量の輸送船や油槽船を失い、艦隊の行動やマリア ナ諸島その他の基地整備に悪影響を与えた。

真珠湾攻撃に同行した特設油槽船(給油艦)が7隻だったことを考えれば、33隻を一挙に失ったことの重大さが分かると思います。

アメリカの空母機動部隊に対抗することの困難さが、特攻の下地になった。

基地に航空戦力を配置しても、アメリカの空母機動部隊に各個撃破され、戦果は乏しい。


アメリカ軍への影響

アメリカ軍は微々たる損害でトラック島を無力化したので、真珠湾のリベンジをしたと表明した。

そして、戦略的価値の無いトラック島の上陸や占領をスキップし、マリアナ諸島の攻略に進んだ。


その後のトラック島

マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムが米軍に

占領されると、トラック島は敵中に取り残された形になった。補給も途絶えがちだった。多数の栄養失調者を出して、終戦を迎えた。