1943年2月2日、スターリングラード(註)攻防戦が終結しました。


第二次世界大戦は、1939年9月1日、ヒトラーのナチスドイツとスターリンのソ連がポーランドに侵攻し、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告して始まりました。

ヒトラーとスターリンは、独ソ不可侵条約を結んでいました。

その後、ドイツは、オランダ、ベルギー、フランスに侵攻し、これらの国は、降伏しました。

フランスでは、親独中立のビシー政権になりました。

西部戦線は、ドーバー海峡を隔てたイギリス本土が残るだけです。


ヒトラーは、イギリス本土上陸作戦の前哨戦として、

イギリス空軍を撃滅し、制空権確保を命じます。

ここにイギリス空軍とドイツ空軍の戦い「バトルオブブリテン」が、1940年7月10日から始まりました。

イギリスは1700機を失い、1500人のパイロットが戦死しました。

ドイツは1900機を失い、2500人のパイロットが戦死しました。

ヒトラーがイギリス本土上陸を諦めたので、イギリスの勝利です。


1941年6月22日、ドイツ軍は不可侵条約を破棄して、ソ連に侵攻しました。バルバロッサ作戦の発動です。東部戦線の始まりです。

当初は、ソ連の準備不足もありドイツから優勢で、占領地域を拡大していきました。ソ連の反撃体制が整うと膠着状態になっていきました。太平洋戦争開戦により、ソ連には米英から兵器その他も援助されました。

ソビエト赤軍と枢軸国軍(ドイツ、イタリア、ルーマニア、ハンガリー、クロアチア)の戦いのヤマ場になったのが、スターリングラード攻防戦です。

この戦いは、1942年8月23日に始まり、1943年2月2日に枢軸国軍が降伏して終わりました。

ソ連赤軍の戦死者と戦傷者の合計は113万人で、2770機を失いました。

枢軸国軍の戦死者、戦傷者、捕虜の合計は73万人、失った航空機は900機でした。

枢軸国軍の直接的敗因は、42年12月〜43年1月に冬将軍(冬の悪天候)で、兵器、弾薬、燃料、食糧などの

補給を十分にできなかったことです。


スターリングラード攻防戦は、東部戦線のターニングポイントになりました。

これ以降、ドイツを中心とする枢軸国軍が、東部戦線において、戦略的主導権を握ることはなく、守勢に回る一方になりました。



(註)スターリングラードは、現在のボルゴグラード

   です。