サツマイモ(薩摩芋、甘薯)と言えば、日本史で覚えた青木昆陽(1698〜1769)を思い出します。

昆陽は、江戸の魚問屋の一人息子に生まれ、学問を志し、京都の私塾「古義堂」で儒学者・伊藤仁斎の長子東涯に師事します。儒学だけでなく、蘭学も学びました。

江戸に戻った昆陽は、南町奉行大岡忠相に登用され、

幕府の役人になりました。

享保の大飢饉(1732年)の時、伊予松山藩はサツマイモで飢饉を乗り切りました。

これを知った八代将軍徳川吉宗は、次の飢饉に備えて関東でサツマイモを栽培、奨励することを昆陽に命じました。

昆陽は小石川薬草園(現在の小石川植物園)や千葉市

検見川で、サツマイモの栽培を始めました。こうしてサツマイモが関東地方に定着していきました。

当時は、サツマイモは甘薯と呼ばれており、昆陽は甘薯先生と呼ばれました。

徳川吉宗は1751年、大岡忠相は1752年、青木昆陽は

1769年に亡くなりました。

しかし、江戸時代の最大の天明大飢饉(1782〜88)に

おいて、サツマイモの普及は餓死者を減らすのに貢献しました。


小学5年生の頃、同級生にお寺の住職の長男がいて、

武士の元服式に当たる得度式がありました。

寺の境内で落ち葉を集め、サツマイモをアルミ箔に包んで焼き芋にしました。火災予防の為、いくつものバケツに水を満たして、備えました。

焼き芋はうまくできましたが、熱くてすぐには食べられません。燃やした落ち葉の後始末も面倒でした。準備から後始末まで時間がかかります。

その後、誰も焼き芋を作ろうと言わなかったですね。

笑い🤣