特報 ガザは、今@「腐る遺体の脇を子供を連れて通った」 ガザでBBC記者 | 堺 だいすき ブログ(blog)

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「腐る遺体の脇を子供を連れて通った」 ガザでBBC記者 


2023年12月23日画像提供,



 JEHAD EL-MASHHRAWI画像説明,戦争が始まる前のエル・マシュフラウィ記者と家族 


イスラエルガザ攻撃が始まって1カ月以上たった11月16日、BBCアラビア語のカメラマン、ジェハド・エル・マシュフラウィ記者は、自宅のあるガザ地区北部を家族と一緒に脱出した。


南へ向かう際に自分と妻と子供たちが経験したことを、記者が振り返る。 


(注意: この記事にはショッキングな、生々しい描写が含まれます)大急ぎだった。


私たちは慌てふためいて、家を出た。


パンを焼いている最中に、向かい側の家が爆撃されているのに気付いたのだ。


一軒一軒。まもなくうちの番だとわかった。


こうなった場合に備えて、私たちは多少の荷造りはしてあった。だがあまりに慌ただしくて、それを持ち出すのを忘れてしまった。


玄関を閉じることさえせずに、そのまま出てきた。この時まで自宅に残っていたのは、年老いた両親を移動させたくなかったからだ。


それに、アル・ザイトゥーンの自宅は、何年も貯金してやっと建てたものだ。それでも結局は、後にするしかなかった。


息子のオマルは2012年11月、赤ちゃんのまま死んだ。


イスラエルとの別の戦争で、砲弾の破片がうちに当たったせいで。


私はこれ以上、子供を失いたくなかった。 


南部に行ったところで電気も水もないし、トイレを使うのに何時間も行列しなくてはならないことは、承知していた。


それでも結局、私たちは水のボトルを1本と、わずかなパンの残りをつかんだだけで、ほかの何万人もの人たちと一緒に、サラ・アル・ディン通りを南へ向かった。


南は安全だと、イスラエルは言った。 



画像提供, MAJED HAMDAN/ASSOCIATED PRESS画像説明,


 ジェハドさんは2012年、生後11カ月の息子オマルちゃんを殺された私たちは大家族で、大勢が一緒に歩いた。


妻アフラム、2歳と8歳と9歳と14歳の息子4人、私の両親、兄弟姉妹やいとこたちとその子供たちが、みんな一緒に。


 サラ・アル・ディン通り私たちは何時間も歩いた。戦争中に設けられたイスラエルの検問所を、いずれ通過しなくてはならないことも知っていた。


みんな緊張していたし、「軍は僕たちをどうするの?」と子供たちは繰り返し尋ねた。 


検問所から1キロあまりの地点が、行列の最後尾だった。長い長い行列は道路を埋め尽くしていた。私たちは4時間以上並び、父は3回、気を失った。 


爆撃で空洞になった建物が道路の片側に並び、そこからイスラエル兵が私たちを眺めていた。道の反対側に広がる原っぱにも、大勢の兵士がいた。


 検問所にじりじりと近づくと、さらに丘の上のテントに兵士たちがいるのが見えた。検問所を遠隔操作していたのだと思う。双眼鏡で私たちを見つめ、ああしろこうしろと拡声器で指示を出していた。


 テントの近くには側壁が開いた貨物コンテナが2つあった。男女に分かれてそれぞれ別のコンテナを通過した。


監視カメラは常に作動していた。コンテナを通り過ぎると、イスラエル兵に身分証の提示するよう言われ、写真を撮られた。 


まるで最後の審判の日のようだった。 



画像説明,エル・マシュフラウィ記者と家族が通過した、サラ・アル・ディン通りの検問所を、11月17日に撮影した衛星画像。


大勢が集まっている様子がわかる約50人が拘束されているのを目にした。全員が男性で、うちの近所の人も2人いた。青年が1人、制止されていた。身分証をなくしてしまい、自分のID番号を思い出せないと言っていた。行列で私の隣にいた別の男性は、イスラエル兵に「テロリスト」と呼ばれ、彼も連行されていった。 


どちらも下着姿になって地面に座るよう、命じられていた。服を着て出ていくよう言われる人もいれば、中には目隠しをされる人もいた。うちの近所の人たちを含め、目隠しされた4人が連行され、破壊された建物の横にある砂丘の後ろへ連れていかれた。


私たちのいる場所から見えなくなると、銃声が聞こえた。連行された人たちが撃たれたのかどうか、まったくわからない。


 これとは別に、カイロにいる同僚が、私たちと同じルートで南へ移動した人たちに取材をしている。


その一人のカマル・アルジョジョ氏は、私たちの1週間前に同じ検問所を通過した際、遺体を目にしたと話している。


ただし、なぜ死んだのかはわからないと。私の同僚はこのほか、同じ検問所を11月13日に通過した「モハメド」という男性にも話を聞いている。 


「服を全部脱ぐよう、兵士に言われた。下着も全部」と、モハメド氏はBBCに話した。「前を通過する全員の前で、私は全裸だった。恥ずかしかった。いきなり女性兵が私に銃を向けて、笑いながらすぐに立ち去った。屈辱的だった」。 


モハメド氏は、2時間ほど全裸で待たされた挙句、ようやく通してもらえたのだと話した。うちの場合、妻と子供たちと両親と私はみな無事に検問所を通過できたが、きょうだい2人がしばらく留め置かれた。


 2人を待っていると、前にいた一行に向かってイスラエル兵が怒鳴っていた。前にいた人たちは、コンテナに残された親類の様子を確かめようと、戻ろうとしていたのだ。イスラエル兵はこの人たちに向かって拡声器で、前に進んで、少なくとも300メートルは離れるよう指示していた。別の兵士がこの人たちを威圧するため、その頭上の空へ発砲し始めた。並んでいる間、何度も銃声を耳にした。みんな泣いていて、私の母も涙ながらに繰り返していた。


「息子たちはどうなったの? 撃たれてしまったの?」。そのまま1時間以上たって、ようやく兄弟はコンテナから出てきた。 


イスラエル国防軍(IDF)はBBCに対して、「テロ組織の関係者と疑われる複数の個人」が予備的な取り調べのためにしばらく残されたのだと話した。取り調べで疑いが晴れなければ、さらに事情聴取するためイスラエルへ移送されたという。それ以外のものは「ただちに釈放」したと、IDFは述べた。衣服を脱がせたのは、自爆ベストなど武器を携行していないか確認するためで、拘束した者はできるだけ速やかに再び着衣させたとIDFは説明している。「拘束したものの安全や尊厳を損なう」ことが目的ではなく、IDFは「国際法に従って行動している」とした。IDFはさらに、「北から南への人道回廊を移動している民間人へ発砲していない」ものの、若い男性たちが反対方向へ動いた際には「部隊に向かって進まないよう拡声器でけん制したにもかかわらず、そのまま動き続けたため、分散させるために発砲した」のだと説明した。


 銃声が聞こえるのは珍しいことではなく、「銃声が響いたというだけでは、特定の場所から発砲した、あるいは特定の種類の発砲があったということにはならない」ともしている。検問所を通過して歩き続け、後ろにもう見えなくなってやっと、私と妻はほっとした。


しかし、一番大変な思いをするのはこれからだと、その時は知るはずもなかった。


 さらに南へ歩き続けると、さまざま場所の道路脇で、10人ほどの遺体を目にした。腐敗の進む遺体の一部があちこちに散らばり、ハエに覆われ、鳥につつかれていた。


あれほどすさまじい悪臭を、ほかにあまり私は知らない。子供たちがそれを見てしまうのが耐えられなかったので、大声を振り絞って叫んだ。空を見上げて、そのまま歩き続けなさいと。 


焼け焦げた車の中に、人の頭が切断されているのも見た。頭を失って腐敗する遺体は、両手でその時もなお車のハンドルを握っていた。何頭ものロバや馬の死体もあった。骨だけになっているものあった。大量のごみや腐った食べ物が山積みになっていた。 


するとイスラエルの戦車が側道からやってきで、私たちに向かって猛スピードで迫ってきた。恐ろしくなり、その進行方向から外れるため、私たちは複数の遺体をまたいで走らなくてはならなかった。遺体につまずく人たちもいた。


戦車は幹線道路にたどりつく20メートルほど前で、方向を変えた。 


いきなり道路の横で、建物が爆撃された。恐ろしい勢いの爆発で、破片があちこちに飛び散った。世界が自分たちを飲み込んでくれたら。思わずそう願った。


 精神的に参って、肉体的にも疲れ切っていたが、それでも私たちはヌセイラト難民キャンプへと歩き続けた。たどりついたのは夕方で、歩道で眠らなくてはならなかった。凍えるほど寒かった。 


8歳と9歳の息子たちを私の上着でくるんで、袖に子供たちの手を入れて、暖を取らせた。一番下の子は私のシャツでくるんだ。私はこれまで生きていて、あれほど寒かったことはない。


 戦車や遺体についてBBCが質問したところ、IDFは「日中には戦車がサラ・アル・ディン通りと交差するルートを移動することがある。しかし、人道回廊を通ってガザ地区を北から南へ移動する民間人に対して、戦車が接近した事例はない」と答えた。 


IDFは、サラ・アル・ディン通りに遺体が山積みされていたことは承知していないと答えた。ただし、ガザの車両が「移動中に遺体を放置することがあり、それをIDFが後に移動させる」ことは何度かあったという。 


安全を求めて次の朝、私たちは早くからガザ第2の都市ハンユニスへと出発した。ロバが引く荷車に途中まで載せてもらえるよう、人に代金を払った。そしてデイル・アル・バラフでバスに乗った。バスは20人乗りだったが、30人が乗り込んだ。屋根に座る人もいれば、外からドアや窓にしがみつく人もいた。


 ハンユニスに着くと、避難所になっていた国連運営の学校に行こうとしたが、もういっぱいだった。結局、集合住宅の地下にある倉庫を借りて、そこで1週間過ごした。 



画像提供, JEHAD EL-MASHHRAWI画像説明,ラファで家族のために火をおこして料理するジェハドさん両親と兄弟姉妹はそのままハンユニスにとどまることにしたが、近所の市場が爆撃されたため、妻と私はさらに子供たちを連れてラファまで南下し、妻の家族と合流することにした。


妻と子供たちは車に同乗させてもらうことができた。私は後からバスで向かったが、あまりに満員で、ドアの外側にしがみつくしかなかった。私たちは今、トタンとプラスチックの屋根に覆われた小さい小屋を借りている。


落ちてくる砲弾の破片から守ってくれるものは、何もない。物の値段はなんでも上昇していて、必要なたくさんのものが手に入らない。飲み水が欲しければ3時間は行列しなくてはならないし、一日三食分の食料は手に入らない。なのでもう昼食はとらない。食べるのは朝と夜だけだ。息子は前は、毎日卵をひとつ食べていた。卵だ。想像できるだろうか。もはや私はそれさえ、息子に与えてあげられない。ともかく今は何よりもガザを出て、子供たちと安全に過ごしたい。


たとえテント暮らしをする羽目になっても。追加取材:アブデルラフマン・アブタレブ、BBCニュースアラビア語(カイロ)


以上引用


ガザの悲惨な現状