・岩倉具視は岩倉使節団。岩倉使節団の目的は不平等条約の改正と欧米の文化の見物の二つありました。

・寺島宗則の時には、税権回復について米国が賛成しましたが、米国は南北戦争中で日本と貿易をあまりしていなかったから賛成したのであって、日本との貿易量一位だった英国は猛反対して結局失敗しました。さらにハルトレー事件というアヘン密輸事件を受けて、税権回復から法権回復への方向転換が起きました。


・井上薫は法権回復を中心に成功させる為に、鹿鳴館などを建てて列強の調子を伺う欧化政策を行いましたが、その中でノルマントン号事件(沈没した船のイギリス人の船長が日本人乗客を一人も助けずに日本人乗客が全員死んだ事件)が起きて、井上は外国人判事を採用することで条約改正を成立させようとしましたが、国民の猛反発を受けて失敗しました。

・大隈重信は大審院(今の最高裁レベルの裁判所)にのみ外国人判事を設置を認めましたが、またも国民の猛反発で失敗。大隈は玄洋社の来島恒喜に爆弾を投げられて片足が吹っ飛んで辞任しました。
↑大隈重信の義足です。

・青木周蔵はあと一歩のところまで来ましたが、大津事件(津田三蔵がロシア帝国の皇太子ニコライ〈のちのニコライ2世〉を襲撃した事件)が起きてしまったので責任を取って辞任しました。


・陸奥宗光が日英通商航海条約で法権回復と税権一部回復を成し遂げました。

・小村寿太郎が1911年に税権を完全回復させて不平等条約改正の歴史は終わりました。


以上です。