はい。こんにちは。今日は北宋について話します。

☆ 北宋の建国と政治形態

唐の滅亡した後、中国は五代十国時代になりました。その覇者となったのが趙匡胤です。

趙匡胤は960年に北宋を建国して太祖と名乗りました。

都は開封(汴州)です。

政治形態は文治政治を採用しました。

文治政治を行うことで唐の滅亡の原因にもなった節度使の権力は弱まりました。

また皇帝の親衛軍(禁軍)の強化や殿試(皇帝がみずから行う科挙の最終試験)を導入しました。

2代皇帝の太宗は北漢を倒して中国を統一しました。

☆対外政策

北宋は対外消極策をとり、1004年に遼(契丹)と澶淵の盟、1044年に西夏(クングート)と慶暦の和約を結びました。


しかし文治政治による人件費の増加、遼と西夏に対する贈品費などで財政悪化しました。

☆  王安石の登場

そこで財政の立て直しをしようとしたのが6代皇帝の神宗の宰相である王安石です。
王安石は新法と呼ばれる改革を行いました。

↑これが王安石の新法。

しかし、新法は『資治通鑑』の編者としても有名な司馬光ら保守派の反対で失敗しました。それを受けて王安石は引退、神宗も亡くなってしまいました。

☆  衰退

その後も新法党と旧法党の対立は続き、北宋はさらに弱体化しました。

そして靖康の変(1126年〜1127年)で北宋は滅びました。
↑徽宋(ぎそう)は北宋の8代皇帝で、哲宋の没後に即位しました。政治意欲ゼロで、1120年には方臘の乱(ほうろうのらん)という農民反乱が起きました。靖康の変の時に子どもの欽宗に譲位しました。
また院体画(宋代の画院の作品のこと)を描くのが上手く、桃鳩図を描きました。なので風流天子と呼ばれました。

また徽宋の子で、欽宗の弟の高宗は江南へ逃れて南宋を建国しました。

☆日本との関係

日本とは正式な交易はありませんでしたが、奝然(ちょうねん)や成尋(じょうじん)らが個人的に渡航(天台山や五台山への巡礼を目的とするお坊さんのみ渡航が許されていた)しました。

奝然は帰国後に清涼寺に釈迦如来像を安置。成尋は善慧大師と称されました。


以上です。