はい。こんにちは。今日は前回の続きから話します。

鎌倉幕府の地方機関について話します。

西国の御家人を京都守護が統轄しました(のちの六波羅探題)

九州の御家人の統轄と大宰府の管理は鎮西奉行が行いました。

後の講義で、鎮西探題や九州探題なとが出ますが、注意してください。

東北の御家人を奥州総奉行が統轄しました。

東北地方は大きいので総がつくと考えてください。

続いて主従関係についてです。

封建制度(土地の給与の代償として家臣は主君に奉仕する制度)が採用されました。

特に鎌倉幕府は御恩(将軍から御家人)と奉公(御家人から将軍)によって封建制度が成り立っていました。
↑奉公を奉行にしないように、幕府が公の場だから奉公と覚えましょう。

御恩には本領安堵(先祖代々の土地の支配を保障する)と新恩給与(働きによっては新しい土地を与える)があります。

奉公は軍時が「いざ鎌倉」です。通常は京都大番役や鎌倉番役などが仕事でした。

御家人とは、頼朝(源氏)の家臣の事です。

東国の御家人は、古参であった為に地頭などに任命されましたが、西国の御家人は元平氏の家臣などがいたので、地頭には任命されにくかったのです。

また頼朝は新制なども作りました。

新制とは、10世紀以後に朝廷から出された律令・格式の編纂した法令の事です。

東国以外の土地では守護・地頭と国司・荘園領主による土地の争いが多発しました。
↑この現象は公武二元支配体制です。

続いて鎌倉幕府の経済基盤について話します。

ノートにまとめます。

・ノート  鎌倉幕府の経済基盤について

・関東御領    平家没官領など約500カ所からなる将軍の荘園

・関東知行国  頼朝の知行国(9カ国)

・関東進止の地  幕府が地頭を任命出来る他人の荘園など

・関東御口入地   幕府が地頭を推薦出来る他人の荘園など


※大田文  一国内の荘園などの田んぼの面積や地頭名などを調査したもの

ノートここまで

一代で政治体制を作り上げた頼朝は、1199年に落馬による傷が原因で亡くなりました。

2代将軍になったのは頼朝の息子の源頼家です。

これで終わります。