1181年1月15日 (治承4年12月28日)
平清盛の5男、平重衡が南都(興福寺や東大寺)を焼いた(南都焼討焼き討ち)
この事件で東大寺大仏も焼けた。
この背景には、弱体化した平氏政権に寺社勢力が逆らっていた事がある。
元々、平氏政権は貴族から嫌われていたが、清盛が福原京遷都を強行して以降はさらに反発が深まっていた。
この事件の前には、近江源氏や園城寺らの反対戦力を平氏政権が攻撃していた。
奈良時代に人々の心の拠り所であった東大寺大仏を焼き払った事に対する非難は凄まじく、清盛はその数ヶ月後に高熱を出して亡くなった。
これは仏罰だとも言われた。
東大寺は重源により再興されて、後白河法皇が大仏の開眼供養をした。
興福寺もまもなく再興された。
これ事件も平氏政権が嫌われる1つの理由となった。
また大仏は、戦国時代にも松永久秀によって焼かれた。