はい。こんにちは。今回は、前回講義した原始水稲農耕以外の弥生時代の出来事などを講義します。
前回講義した水稲耕作が始まったことで縄文時代から弥生時代になりました。
弥生時代には青銅器と鉄器が登場しました。
それらは稲作道具にも使われました。
日本では、青銅器と鉄器が同時期に登場しました。
青銅とは銅と錫の合金した物の事です。
実は他の国々では、青銅器時代から鉄器時代に移行したのですが、日本では前述した通り青銅器と鉄器が同時期に登場したので、農業用具や戦闘器として使われたのは、精度の高い鉄器で、青銅器は祭器として使われました。
日本では青銅器の剣(銅剣)などが見つかりましたが、それは戦いで使用した物ではありません。注意してください。
他には銅鐸、銅矛、銅戈などがあります。
九州北部では、銅戈・銅矛・細形銅剣
瀬戸内地方では、平形銅剣
近畿地方では、銅鐸がよく見つかります。
島根県荒神谷遺跡・島根県加茂岩倉遺跡では銅鐸や銅剣が見つかりました。
・当時の墓制
屈葬から伸展葬になりました。
理由は定かではないですが、死者は硬直するので、屈葬の形にするのが大変だったからかもしれません。
他にも大きい石の下に遺体を埋めた支石墓、甕型の棺に遺体を入れて埋めた甕棺墓、盛り土をもった墓である方形周溝墓、墳丘をもった墳丘墓などがあります。
支石を置く事で墓の位置が分かるようになりました。
甕棺墓は、骨をそのままの状態で埋めると土に還るので、それを防ぎました。
方形周溝墓と墳丘墓はやがて古墳へと進化します。
・当時の生活
弥生時代からは戦いが始まった為、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡のような周りを濠で囲った環濠集落が代表的です。
また香川県の紫雲出山遺跡や兵庫県の会下山遺跡のような険しい山岳に作られた高地性集落もありました。
・当時の海外状況
中国
北 黄河流域でアワやキビなどの農耕
南 長江流域で稲作
秦や前漢の形成
北海道
弥生文化にはならず、続縄文文化という縄文時代の生活が続いていました。7世紀には擦文土器やオホーツク式土器をともなう擦文文化やオホーツク文化が生まれました。
弥生文化にならなかったのは、稲作が届かなかったからです。
南西諸島(沖縄など)
貝塚文化という文化が始まりました。貝塚文化という名前のみ覚えておけば良いでしょう。
・中国との交易から邪馬台国まで
『漢書』地理志
倭(日本)が100余国に分立した事が書かれています。作者は班固。志を誌と書かないようにしてください。
班固の志は『漢書』を書くこと、と覚えてください。
因みに『漢書』地理志という本はありません。『漢書』という本の中の地理志という話の事です。
『源氏物語』桐壺のような感じですね。
間違わないようにしてください。
『後漢書』東夷伝
57年に倭の奴国の王が、後漢の光武帝より印綬。福岡県福岡市志賀島出土の金印の事と思われています。
漢委奴国王の文字が彫られています。委を倭と書かないようにしてください。
当時の技術では細かい字を書くのが大変だったのです。
また後で習う和同開珎は同ですが、年号は和銅です。←習ってない人はふーん程度で良いですよ。
107年 倭国王帥升が生口(奴隷)を中国の安帝に献上しました。
生口は奴隷の事です。奴隷を献上したと言う事はこの時期には、身分格差が生じていた事を表しています。
その後、倭国大乱で国が乱れたと書いてあります。
作者は范曄。
『魏志』倭人伝
卑弥呼の活躍が書いてあります。 作者は陳寿。
・卑弥呼 邪馬台国の女王。鬼道(呪術)で国を統治しました。結婚はしておらず、弟がサポートしていました。
卑弥呼は239年に魏に帯方郡(今のソウル)を通じて遣使。当時、中国は魏・呉・蜀の三国時代です。
帯方郡と間違えられやすいのが楽浪郡です。楽浪郡は今のピョンヤンです。
なぜ三国から魏を選んだのでしょうか。
それは、日本と最も近かったのが魏だったからです。
当時は飛行機が無いので、遠い国とは交易出来ないのです。
そして卑弥呼(邪馬台国)は、魏から親魏倭王の称号と金印を授かりました。親と新を間違わないようにしてください。
あと三角縁神獣鏡という鏡も貰いました。
新しい倭王ではなく、魏が親となって守る倭の国の王と覚えてください。
邪馬台国は、近畿地方にあったとされる近畿説と九州地方にあったとされる九州説が今でも論争中で不明です。
卑弥呼は狗奴国との争いの中で病死しました。
卑弥呼の死後、跡を継いだ男の王の代に戦いが増えたので、卑弥呼の宗女(一族の女性)の台与(壱与)が王になりました。
そうしたら戦いは無くなりました。
台与は266年に西晋に遣使しました。当時、魏は滅びています。
西晋が魏を滅ぼしたのです。だから日本と西晋はそこまで離れているわけではありません。
その後の邪馬台国の動きは不明になりました。
これで終わります。