では、始めましょう。
一つ質問をします。関東では戦国時代はいつから始まりましたか?
答えを言います。
関東は京都よりも早く戦国時代に入りました。
それはなぜか?説明していきますね。
15世紀半ば頃、東国を見張る鎌倉府の長官(鎌倉公方)の足利成氏が鎌倉公方をサポートする関東管領の上杉憲忠を殺害しました。
この2人は仲が悪かったのです。そして遂にキレた成氏が憲忠を殺してしまいました。
鎌倉府の上に位置する室町幕府は勝手な行動をした成氏を許す訳にはいきません。そこで時の将軍、足利義政は兄の足利政知に成氏追討を命じました。
成氏は鎌倉から退き、下総(今の茨城県)の古河に拠点を移しました。成氏は古河公方と呼ばれました。
一方、政知は鎌倉には入らず、伊豆(今の静岡県)の堀越に居を構えました。政知は堀越公方と呼ばれました。
鎌倉府は事実上、無くなりました。
古河公方と堀越公方は激しく争いました。これを享徳の乱と言います。
享徳の乱は関東の応仁の乱とも呼ばれています。この結果、関東管領上杉氏も山内上杉氏と扇谷上杉氏に分裂してしまいました。
マメ知識 上杉謙信(長尾景虎)は長尾氏から山内上杉氏の養子になった。
これにより関東は一足早く戦国時代に突入しました。
やがて混乱に満ちた関東を統一していくのが北条氏です。
鎌倉幕府の北条氏とは無関係です。だからよく後北条氏と呼ばれます。
妹が嫁いでいた駿河(今の静岡県)の今川義忠の手助けの為に京都から下った北条早雲は、この混乱をチャンスだと考えて、1493年に堀越公方の足利茶々丸(政知の子)を討ち伊豆を奪いました。
更に相模にも進出しました。
城下町は小田原です。
また家訓は早雲寺殿廿一箇条です。北条早雲の教えが書かれています。
早雲の死後は、子の北条氏綱と孫の北条氏康の代に全盛期を迎えました。
これで終わります。