今日は滝口の武士(武者)、北面の武士、西面の武士について講義します。


まずは滝口のは武士からです。別名は滝口の武者です。設置した人は宇多天皇です。


宇多  滝口    しりとりで覚えてください。

なぜ設置したのか?

それは宇多天皇が寛平の治という天皇親政(天皇自ら政治をすること)をしていたからです。
当時は藤原北家が台頭していました。
しかし、藤原北家の台頭を抑えようと思った宇多天皇は藤原基経(藤原家初の関白)の死後、摂政・関白を任命しないまま、自ら政治をしました。これが寛平の治です。宇多天皇は藤原氏でない菅原道真を登用しました。

しかし、優遇されていない藤原氏にとって宇多天皇は邪魔だったのです。
宇多天皇はそういう反天皇親政派から身を守るために設置したのが滝口の武士です。


続いては北面の武士です。設置した人は白河上皇です。
白河上皇は院政(天皇に代わり、上皇や法皇が政治をすること)を始めました。その時に設置されたのが北面の武士です。
またこれが設置されたのも、滝口の武士の設置と同じ理由です。

院政期になると藤原北家(摂関家)の力は衰えていました。しかし、権力を取り返そうと思っていた藤原氏の人もいたのです。その人たちから身を守るために北面の武士を設置しました。

川(河)の北側を守る武士と覚えてください。

続いては西面の武士です。設置した人は後鳥羽上皇です。

当時は鎌倉時代で、北条氏が執権として活躍していた時代です。

鎌倉幕府を開いたのは源氏です。当時、源氏はどうなっていたのでしょうか?

当時、源氏は鎌倉幕府三代将軍、源実朝が甥の公暁に殺された後にその公暁も殺されたことで滅亡していました。

それに不満を唱えたのが後鳥羽上皇です。実は後鳥羽上皇は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝に征夷大将軍を授けた人なのです。

後鳥羽上皇は源氏だから鎌倉幕府を認めていたが、源氏が滅びた今、幕府は必要ないから朝廷に権力を返せと思うようになりました。

そこで設置したのが西面の武士です。これは幕府から権力を奪い返すために設置されました。

東にある鎌倉幕府に対抗する西の武士たちと覚えてください。

準備を整えた後鳥羽上皇は北条氏の権力者であった北条義時を討てという命令を出しました。

↑承久の乱までの流れ

こうして幕府軍と朝廷軍が激突した戦いのことを承久の乱と言います。1221年に起きました。

しかし、後鳥羽上皇は敗れて隠岐へ流されました。西面の武士も廃止されました。

↑後鳥羽上皇の他にも順徳上皇が佐渡に、土御門上皇が土佐(後に阿波)に流罪となった。


以上で終わります。