第一次護憲運動とは第三次桂太郎内閣に対して、立憲政友会尾崎行雄立憲国民党犬養毅が協力して閥族打破(藩閥中心の政府を打破する考え)と憲政擁護(憲法にそって政治をする考え)を唱えて起こした運動のことです。

 
桂は首相になる前、内大臣(宮中文書の保管)と侍従長(天皇の秘書長)をしていたのです。

↑桂太郎は藩閥の長州藩出身です。
 
 
1885年に制定された内閣制度では宮中と行政府を切り離すと書いてあったのです。しかし、桂は直前まで宮中にいたのにも関わらず、首相になったのです。これは内閣制度に反したとして護憲運動の契機となりました。
 
尾崎や犬養はこれを機に、明治維新の功労者(元老)が裏ボスである藩閥政府を変えようとしました。
 
その結果、桂内閣は僅か53日で退陣しました。桂内閣が護憲運動で退陣した出来事を大正政変と言います。
 
桂太郎は同時期に首相になった西園寺公望と共に桂園時代という桂→西園寺→桂→西園寺→桂という2人が交互に首相になる時代を築きましたが、この大正政変後は桂も西園寺も首相にはなりませんでした。
 
桂も西園寺も元老なりましたが、元老は西園寺が最後で、元老が政治を牛耳る時代は終わりました。
 

↑西園寺公望は2個師団増設問題(陸軍を拡張するか、しないかという問題)で陸軍大臣の上原勇作と対立、上原が勝手に陸軍大臣を辞めた後、軍部大臣現役武官制(陸軍大臣と海軍大臣は現役武官の大将か中将からしかなれなく、後任は内閣ではなく、それぞれの省が出すという制度)があり、西園寺自ら上原の後任を指名できず、陸軍省も後任を出さなかったので、陸軍大臣が欠陥したため、内閣が崩壊して退陣しました。
その次に組閣したのが第三次桂内閣です。