映画「批評」の必要性というものを考えるきっかけがあった。

最初に自分個人の結論から言うと、(「映画鑑賞」という目的に即しては)「否(不要)」である。

 

が、近年、割と好んで見ているtubeコンテンツはあるから、これ(見る理由)はなぜか、ということを何となく整理してみよう、というのが今回の趣旨となる。

見ているのは、若手映画批評tuberとして既に名の挙がっているyoutuber(大島育宙、ジャガモンド斎藤、おまけの夜)の、もっぱら彼らどうしのクロストーク(対談)だ。

 

きっかけになったのは、大島×おまけの夜(柿沼)が、「映画youtuberの立ち位置」ということについて論じていたのが、非常に面白かったからだ。

彼らが影響を受け、意識もしてきた(日本の映画批評の)「ビッグネーム」(四方田、蓮実、町田、宮台、宇多丸etc.)というのは、(それらが有名かつ著作も数々ものしているとは)知っているにせよ、全然興味を持ったことないな、と思ったからだ。

 

片や、今ではtube上で、上述の若手映画批評youtuberの対談は楽しんでいる。

これはなぜだろうか。理由と、また論点がいくつかに分かれてくる。

まず、それを整理してみよう。

 

・彼らのおしゃべり(雑談)そのものの楽しさ、軽快さ

 →大島とジャガモンド斎藤は芸人であり、しゃべりは専門で練達している。

  またともに頭脳明晰で話も語彙も整理され分かりやすい。話そのものが楽しく、文字通り「ラジオ聴取」しやすいコンテンツとして摂取している。

・彼らが取り上げる映画は、基本「自分では見ない」安心感がある

 →「今上映中の話題の映画作品」を主に取り上げるが、自分はそうした「話題作をリアタイする」ことは基本ない。

  「自分に無関係の作品の、好き勝手なおしゃべり」として、「当事者性」なく「無責任に」聞いていられる。

  仮に、自分が気になっているものの話をしていたら、それはむしろ飛ばしている。笑

  先入観も、余計な感想や知識も、特に入れられたくないためだ。

 

つまり、彼らの映画「批評」は、「自分がこれから見る(見ざる)べき」作品の参考知識・情報や、その指標・基準として聞いてはいない、というのがポイントである。

あくまで「独立した批評(家)としての面白さ」に目当てがあるのだ。

 

 

それと関わって重要なことに気づいたのは、

・「映画」という「思想」、あるいは「イデオロギー」への本質的な興味(または「幻想」)の無さ

ということだ。

自分はコンテンツ形態の一つとしては、「映画」は割と好きで、過去作品は最近特に、習慣的に摂取してもいる。

が、「映画」という「営み」そのものには、さほどの「思い入れ」のようなものはないな、と思ったのだ。

言わば、「マンガ」が好きであるのと同じだ。

 

それが、映画「批評」を特に求めてないことと、密接に結びついてくる。

映画の歴史というものも、興味ないとは言わないが、基本的には「雑学・雑談」以上のものではない。

映画にまつわる技術史とか芸能史、メディア・政治史のようなものも(自分が特別に何らかのテーマを持って探究中ということでない限り)、「映画ヲタク的雑学」以上のものではない。

聞いたからと言って、「なるほど」「で?」を超えることは特にない。

 

 

これは、コンテンツ形態としての「小説(と文芸批評)」「マンガ」の場合の事情と比較してみるのが興味深い。

自分は「小説」は殆ど読まないが、「文芸批評」は割と好きで(取り扱われる作品自体には興味なくとも)読むことがある。

「小説」とか「文学」(という「思想」や「イデオロギー」)への「幻想」がないのは、「映画」と似ている。

「批評」が好きなのは、その文章、または分析、あるいはその批評家・評論家自身か、その視点そのものに面白みを感じているからだろう。または、それら作品が描かれる時代や社会的背景に、自分自身も興味やテーマを持っている、か。

映画と異なり、「文学史」や「作家の伝記」なども、結構読んでいる気がする。

自分自身も「文章を書く」という営みとも、若干関わっているかもしれない。

 

「マンガ」は、コンテンツ形態としてはかなり好きで、作品数も読み込んでいる(ジャンルや作者の偏りはある)が、その「批評」(?)もあるのだろうと思うが、そうしたものは好んで読むことはないし、興味も持たない(「批評には存在意味がない」とすら思っているかもしれない)。「マンガ史」のようなものも、ざっくりと知っていても、がっつり知りたいという欲求はない。

だから、「偏り」というと、近年は、自分の読むタイトルは、Amazonレコメンドに著しく偏っている可能性が高い。

 

 

次に、前も書いたかもだが、SNS時代のコンテンツ摂取方法とはそぐわないが、「リアタイで、同一コンテンツの感想を人々と共有したい」という願望がないということだ。

基本的には、自分一人で見るし、誰かとその場でつながり、またはすぐに感想を共有しディスカッションしよう、というような欲や願望がない。

第一に、何回か書いた通り、「人気作・話題作を、リアタイで見る」という行動や習慣そのものを、ほぼ拒否しているからだ。

 

そうなるとこのブログは?ということだが、これも個人的な感想録以上ではない、と見るべきだろう。

自分なりの(作品やキャラ等への)「愛」を表現したり、残しておこう、とは思っている。

それが結果的に誰かの目に留まり、興味を持ってみてくれたら幸いではあるものの、それは目的としてないし、また「批評」と言えるような分析は、特に目的としてもないし、やろうともしてない。

 

 

では、映画「批評」を「聞いて」いたとして、それが「無(0)」なのか、と言えば無論そうではない。

「雑学・雑談」としての楽しさはあるし、「何となくの知識や情報」でも「なるほどなー」と「世間並みの常識」形成に役立つことはある。

また、同一作品は観なかったとしても、その「(作品への)スタンス、観方、角度」のようなものは、参考になる。

「ああ、こういう風に見るべきなのか、こうした文脈は押さえておくと否とで変わってくるのか」といった感じで…

いわば、「世間感覚とのすり合わせ」のような作業をしている、といった感じだろうか。

 

 

もっとも、これは、自分の「映画摂取量」の絶対値がまだ低いせいかもしれないが。

もっと見続け、見込んでいったら、「表現」とか「構図」、その「技術」なども知ったり、云々したりしたいと思うのかもしれない。

しかし今は基本的には、「映画」というコンテンツ形態の場合も、「文芸批評・文学史」にしても「マンガ」にしても同じ、「自分が持っている特定テーマを探求するための参考素材」以上ではないのだ。