10年を振り返る | (・∀・)?

(・∀・)?

Living is not breathing but doing.

公開記事をアメンバー限定に変更したんですが、

更新するにも通知がいってしまうそうで、

過去に読者登録してくださっていた方々には大変ご迷惑をおかけしました…。

アメンバーだった方々も今はアメーバ退会してるだろうとか、

すでに登録アドレスは使っていないだろうとか思っていましたが、

通知きてます~とご連絡いただきました。失礼いたしました。

今更すぎますが、僕の痛い過去はともかく、他人の顔出しありの個人情報満載だったのでアメンバー限定に設定させていただきました。

それぞれ埋没生活していたりすると思うので。どこから漏れ出るかわかりませんので。

(10年前の記事になりますが、当時は顔出しOKの許可はとっていました)

 

下記の記事は先月書いたものです。書き上げたまま公開を迷っていました。

開いた人、わかりました?めちゃくちゃ長いです。卒論より長いんじゃないかと思います。

これは僕の生きた10年のまとめです。全部読み切れないと思います。すごいやろ。

公開を迷ったのは、これすら書いたとき、今にしてみればすでに過去の自分の書いたことで、

それを誰かに受け取られる、伝わってしまうのが怖かったからです。

冒頭に「自分のためのまとめ」とか書いてますが、結局は人の目に触れるものだから、

何かが誰かを傷つけるんじゃないかと思うと気が引けました。

後からこんなことも言いたかった、もっと言及したかったと思っても、受け取られてしまってからでは遅いからです。追記しても読んでもらえるかわからないし、自分が書き続ける予定もないので。

でも僕、今日の日付が変わったら31歳になってしまうんですよ。10年を振り返るとか言いながら11年を振り返ることになっちゃうんです。

誤差の範囲だと思いながらも、公開するなら今しかないと思って公開してみることにしました。


という長い言い訳でした。

 

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2024年5月で、性別変更手続きから10年が経過したそうで。

2013年8月にタイで手術をしたはずだったんだけど…

こういう事務手続きが苦手なところは、10年経った今も絶賛健在です。

 

最後の記事から6年。治療12年、術後10年、

節目ということで、自分のためにこの10年のことをまとめたいと思います。あくまで自分のため、自己満足のためです。読みにくいとか知らん。

 

時代は変わったから、もはや昔の話。誰かの参考になるものでもないと思う。

でも、同じように術後20年経過した埋没人間が10~20年を振り返る話があれば、自分は読んでみたいと思う。自分が治療前でも、治療後でも。そんなスタンスで書く、ただ、一人のFTMの”その後”の話です。これを読む誰かが絶望するか希望を抱くか、それも知らんです。

 

現在の自分についてと10年間の評価

 

2024年6月現在

年齢   満30歳 1993年7月生

治療歴  2012年 診断書取得

          ホルモン治療開始

          〜12年3か月程度

         (1/5wエナルモンデポー250m)

            改名

     2013年 性別適合手術

          〜10年9か月程度

     2014年 性別変更

手術歴  乳房摘出(O字)子宮卵巣摘出(切開法)

     乳輪乳頭縮小

身長   161cm

体重   52kg前後

最終学歴 四大卒 中堅私大文系 奨学金なし

就労状況 正社員 都内一部上場企業 事務職 係長

年収   400万〜

総資産  1000万程度

居住   関東近郊 賃貸 一人暮らし 実家近辺

婚姻関係 未婚 独身

家族構成 直系 父 母 父方祖母

     傍系 姉 義兄 甥 甥(中部地方)

        弟(海外)

趣味   ボクシング スキンケア カラオケ

 

体の満足度 ★★★☆☆

今後の治療 ★☆☆☆☆

治療の後悔 ★☆☆☆☆

社会適合性 ★★★★★

人間関係  ★★★★★

結婚願望  ★★☆☆☆

将来の不安 ★☆☆☆☆

幸福感   ★★★★☆

 

総評的にかなり良し。

 

理想や願望は変化するものだ。10年前の自分が思い描いた理想とは違っているだろう。性別を変える前は、性別を変えたら結婚がしたい、子どもを持てたらもっとよい、そう考えていたと思う。

 

理想や願望は実現できうるものであればいいが、難易度が高いほど幸福度を下げかねない。極端な言い方をすれば、高い理想と低い幸福度より、低い理想と高い幸福度を目指した方が、人生の幸福度の平均値は高くなるというものだ。

但し、理想や幸福バーを不本意に下げるのでは意味がない。無理な意識で自分は幸福である、満足していると言い聞かせたり思い込むのではなく、本心からこれくらいでいいな、と思えることが必要だ。

これがおそらく誰にでもできることではなく、自分にはできることなのだと思う。

 

長くなるので目次を載せておきます。

 

1.治療について

2.仕事について

3.家族親戚について

4.交友関係について

5.恋愛観について

6.LGBTについて

7.FTMについて

8.30歳の自分について

 

【治療について】

ホルモン治療と性別適合手術をした今の身体には、概ね満足している。
というのも、日常生活を送るにあたって、かつ完全埋没するという意味では、しっかり目的を果たすことができている。

男性として社会に出て、性別を疑われたことはない。

 

ホルモン治療は一通りの初動変化が終わったあとどうなるのかと言うと、自分の場合あまりそれ以上の変化は実感していない。もしかしたら耳横、もみあげがほんの少し濃くなってきてるかな?程度。

更年期障害の症状は術後のホル切れで一度経験して死にかけた。それ以降は全くなし。

 

[ホルモン治療での変化]

身長 変化なし

体重 治療前後で3kg程度は増加

   高校時代42kg→大学時代45kg→社会人48kg

   SRS後に爆増するという話を聞いたが自分には無関係だった。

声帯 低くなった。イケボではない。ナベ声かは知らん。

体毛 髭はかなり薄い。口髭はほぼなし、顎髭は太いが密度がない。

   一週間剃らなくても伸びるだけで目立たないから指摘されない。

   脚は濃くなった。放置すると伸びる。腕はあまり変わらず。

   腋毛はあまり変わらず。増えなかった。

   陰毛は昔より直毛気味になった。放置すると伸びる。

毛は無い方がいいというのが現在のマインド。脱毛もお金がかかる上に面倒なので、たまに伸びたらバリカンで3mmに刈っている。水はけが良くなるから風呂上り楽、脛毛が切れて床に落ちないのが良い。

頭髪 太くなった。癖毛は変わらず。ここ1~2年やや薄くなったような気がしてAGA治療を開始。

父方も母方もハゲの遺伝家系。生活習慣も睡眠時間短め、肉多めと悪い。額はノーダメ、旋毛から薄くなるタイプ。人から言われたことはないが、自分で気になるのでフィナステリド1mmを毎日服用中。これがもしホルモン治療のせいだったら、12年でハゲるのは割に合わない。悪化したと感じたらミノキシジルに転換するけど、今のところ8か月くらい服用していて特に変化なし。因みに副作用で抑うつにかなり苦しんだ。

肌質 混合肌。ニキビ肌。油断するとニキビができる。

   でもホルモン治療とは無関係だと推察。

筋肉 体重の増加のほとんどは筋肉の増量によるもの。

   社会人までに増えた6kgはおそらく自然な筋肉の増量。

   現在に至るまでのプラス4kg前後は趣味で始めたボクシングによるもの。

陰核 大きくはなったが、初動以降変化なし。チントレなし。

   親指くらいと聞くがそこまで大きくはない。

生理 摘出前全くなし。一度も不正出血なし。

性欲 普通。弱い方かもしれない。

体臭 変わっただろうけれど臭いと言われたことはない。

記憶 短期記憶は強い。弱くなってる部分はおそらくホルモン治療ではなく年齢によるもの。

 

[今後の治療]

特に希望なし。実生活で困っていることがないのが大きい。

トイレは常に個室を使用、立小便は経験すらない。

立小便できるようになったらいいけれど、器具を使って手間が発生するくらいなら個室でいい。

ミニペニスは尿漏れリスクが気になる。加齢で尿漏れするようになったらいっそいいかも。

陰茎形成は性交渉で使えないなら意味なし。下手に完成度が低くても嫌だし。

 

[治療の後悔]

治療して後悔、というのはないが、乳房摘出と縮小をO字で行い、乳輪周りにO字型の切開痕が残ったことと、

子宮卵巣摘で内視鏡ではなく切開法を選んだためI字の切開痕が残ったことが後悔ポイント。

乳輪のO字痕は公衆の面前でも恋人にも変な目で見られたことはないが、個人的にはやや気になる。

とはいえこれは慣れ。慣れた。服を着たときに乳首が浮いてしまうとか、実害が全くないので良し。

腹部は多少高くても内視鏡を選んだ方がいい。切開は術後しばらく傷口が痛い。

自分は公衆浴場には興味がまるでないから脱がないし、脱いでも隠すし、傷口が気になるわけではない。

10年経ってだいぶ薄くなり、遠目ではわからないかもしれないけれど、傷は残っている。

 

乳房・乳輪が特別大きいわけでないのならU字、腹部は切開ではなく内視鏡がおすすめ。

 

【仕事について】

2016年 東京支社 営業職 入社

2018年 横浜支社 事務職 主任昇格 異動 

2020年 東京支社 事務職 異動 係長昇格

 

新卒で入社して9年目、今は6人チームのリーダーとして働いている。

自部署は平均年齢が高くまだまだ若手の類いだが、もう中堅と呼ばれてもおかしくない社歴になった。

一般的には有名と呼べるほどの知名度はないけれど、上場企業の本社機構で事務職をしている。

日々の業務はルーティーン、バリバリ汗を流すようなやりがいに満ちた仕事じゃないけれど、今は最年少で課長になるのを目標にマネジメントを勉強しながら、係長としてそれなりに責任を持って働いている。

 

去年の10月に昇進赴任した上司との関係も良好、お互い背中を合わせるような雰囲気で仕事ができている。

バイト時代から働くことは好きじゃなくて、お金を稼ぐより家でだらだらすることを選びたいのは今も変わらないけれど、裁量を与えて評価してくれる上司と、真剣に仕事の話ができるプライベートでも仲の良い同僚がいて、段々と自分にも判ることや決められることが増えてきたから、仕事に対して苦に思うことは減った。

一部上場企業の中では給料は少ない方だろうけれど、自分はあくせく働いて高い給料をもらうより、そこそこの給料で緩く働きたいタイプだから、自分のペースで働けて定時で帰れる今の仕事は性に合っているのだと思う。
 

今後はできれば今の部署で昇進していきたいけれど、執着があるわけでなくて、外的要因で躓いたり足踏みするようなことがあれば、引き抜きたいと声を上げてくれている部署に異動するつもりでいる。

周囲の協力体制も完成しつつあるから、まずは最短32歳で次の課長補佐を目指す。

ポストを考えたら自部署での滞留は免れないから、課長昇格以降は追々考えるかな。

対内、対外どちらも冷静に、一人でも多くの人を手の内でコントロールできるようになるのが当面の目標。

 

【家族親戚について】

10年前と変わったことは、姉が結婚して子どもを二人産んだことと、

弟が海外に留学(そのまま永住予定)して、大学時代から付き合っていた彼女と婚約したこと。

 

「結婚も出産も私に任せて。好きに生きたらいい。」

姉はいつか言ったとおり、本当に結婚して子どもを2人産んでみせた。

自分は二人の甥の叔父として、二人が生まれたときから育児に参加している。

頼んだわけじゃないけれど、姉は僕に育児経験をさせてくれている。

ミルク、オムツ替え、離乳食の給仕、着替え、風呂、歯磨き、寝かしつけ、

日頃は分業しているけれど、授乳以外の一通りのことはできるようになった。

上の子が生まれた2021年から、東北と関東を月に一度は行き来して子守をしてきた。

下の子が生まれた今は、中部と関東を月に一度は行き来している。

 

どれだけ頑張っても、大切にしても、彼らの実の親になることはできないけれど、実の子のつもりで彼らを育てている。

30歳にして初めて生命保険に入った。保険金の受取人は迷わず姉にした。自分に何かあったとき、そのお金を彼らに使ってもらえるように。

上の子の怪我で救急車を呼んだとき、上の子の意思に反して叔父は同乗できないと消防士に乗車を拒否された。

その場では母親である姉が救急車に同乗し、自分は父親である義兄と二人で車で救急車を追いかけたけれど、病院に着けば、父親は入館できても叔父はできないとまた拒否された。親でないというだけで理不尽な思いをする現実と、自分の無力さに打ちひしがれた。

それでも姉夫婦と一緒に、甥たちを育てていくと決めている。子育ては人手があればあるほどいい。

 

そんなに甥っ子が可愛かったら、自分の子どもが欲しくなるでしょう?何度聞いたかわからない言葉だ。

確かに昔は子どもが可愛くて仕方がなかった。好きな人との子どもを育てられたらと真剣に考えたこともあった。

二人が生まれて変わったのは、自分にも子どもをほしいと思わなくなったこと。

それはシンプルに二人を自分の子どものつもりで育てているからというのが最大の理由ではあるけれど、

実際に携わる育児の中で、産むことの大変さや育てることの厳しさや難しさを身をもって知ったからでもある。

少なくとも子どもを得るというのは、自分が望んで決められることではないというのが今の答えだ。

 

新しい家族の形のひとつ。籍は入れていないけれど、姉と義兄、二人の甥と自分の5人で家族。


【交友関係について】

周囲の大多数は結婚して、独身のほうが少数派になった。

結婚した世帯はすでに子育てしているところがほとんどだ。

結婚を機に疎遠になった人も、結婚しても子どもが生まれても変わらず仲の良い人もいる。

すごく親しかったけれど縁を絶った人も、10年の間に出会ってすでに別れた人もいる。

男女比は半々というよりは、性別を変える前は女友達、変えた後は男友達がほとんど。

 

今でも親交のある友人たちは男女問わず、距離感や関係性は違えど、それぞれが大切な友人だ。

でも、次の10年で変わらないとは言えない。人は変わっていくからだ。

ここまで10年、20年と付き合いがあれど、別れるべきときだってある。

10年後、今とても大切な人と別れていることだって、今出会ってもいない人が大切になっていることだってあるだろう。
友人も恋人と同じで、別れるべきときはある。そして、別れそうでも繋ぎとめたいこともあるだろう。

 

10年以上前は、社会的弱者である自分を理解してくれる人は貴重で、友人は一人でも多くほしかったし、恋人と同じで、友人が多ければ多いほど自分は社会に受け入れられている、価値のある存在だと思えたような気がする。

それは「普通」に囚われ、独自の価値観で生きていた自分が、普通の人には友達がいるというイコールの式を持っていて、恥ずかしい話、友人がいて初めて自分は普通でいられるとか、友人がいなければ普通ではないとか、そういう物差しで作り上げた小さな理想だった。

今思えばあまりにくだらないことに感じるけれど、当時の自分はいつだって真剣だった。

それは社会人になった今と違い、学生時代は生活の拠点を大勢の特定の人物と箱詰めされて生活していた所以だろう。

 

義務教育を終えて治療を始め、男社会に出ですぐ、大学での4年間はそれなりに努力をして友人も恋人もつくることができたけれど、結果的に卒業後も残るような関係性はつくることができなかった。

上辺の関係ばかりになった理由は、男性との付き合い方が下手くそだったことと、シンプルに気の合う仲間に出会えなかったから。

入学した当時はまだホルモン治療だけで、名前も戸籍も変わっていなかった自分は性別のことを隠していて、ずっと秘密に対する後ろめたさがあったし、18年間を女社会で生活してきた自分は、男社会に馴染むすべを知らなかった。

コミュニティにおいて治療が終わるまで苦労したことと言えば、細かいことを言えば、たとえば出席票を書いて提出するだけで冷や汗ものだったし、連れションはできないし、すぐ脱ぎたがる若いノリに乗っかることができないとか、言い出せばきりがないほど懸念事項がたくさんあった。

異性に対しての免疫も、自分のいた女慣れしていないコミュニティには受け入れてもらえなかった原因のひとつになった。

 

大学での難しさに対して、地元ではごく自然と治療後の自分を受け入れてもらうことができて、かつての交友関係をより深めることも、新たにつくりあげることもできた。バイト先での新たなコミュニティにも自然と馴染めたから、身を置く場所の重要性も学ぶことができた。

上手くいったこともいかなかったこともあるけれど、女性から男性へと転換する過渡期を、その場で嫌な思いをして過ごすことなく無事に終えられたことは評価していて、その4年間で治療と就職活動、人生の決断を実行し実現できたことには大きな価値だと感じている。

 

[親友との出会い]

親友と呼べる男友達に出会ったのは、23歳のときだった。

大学在学期間中に治療を終え、男性として就職した今から8年前、会社に入社して出会った同期の一人だ。

同期の中で一番初めに仲良くなった彼の影響で、自分の性格や生き方が大きく変わったことは一生忘れないだろう。

 

出会ったときの彼の口癖は「まあ俺、人に興味ないから」だった。同期の誰が〜だったらしいよ、そんな話をすれば、そうなんだとか、感想の後ろにその口癖が必ずついた。噂話はもちろん、自分自身の話をしてもそう返されることがあった。

最初は正直、突き放されてるのかなと思った。興味がないから話題を変えて、と言われているような気がした。

彼に拒否されたわけではないけれど、何となく申し訳ない気持ちになり、興味がなさそうな話をするときは、「どうでもいいんだけどさ」とか「興味ないと思うけど」とか、自分なりに枕詞をつけるようになった。

 

でも、一緒に過ごす時間が増えて、彼が本当に人に興味がないと分かるようになってきた。

彼が新しいワイシャツやネクタイを買えばすぐに自分は気がついたが、彼は広めのトイレの個室に二人で入って一緒に水着に着替えたのに、こちらの股間など見向きもしなかったし、トイレに行けば必ず個室に入るにしても、個室が好きなんだなとか育ちがいいんだくらいにしか思わない奴だった。毎日同じネクタイを締めていても、彼はきっとこちらが自白するまで気がつかないだろう。

彼は自分の着ているベストにクリーニングのタグが付けっぱなしのことに一日中気がつかないほど目に見えるものに無頓着で、逆に自分は目に見えるものに敏感すぎることに気がつかされた。

もちろん、彼は中でも特に鈍感な人間なのだろうけれど、自分が思うほど他人は自分を見ていない、それを教えてくれたのは紛れもなく彼だった。

他人から見られていないと分かって、どれだけ救われたかは言い表せない。

 

それは見た目の問題だけでなく、自分の意見を言うことや、何かを我慢することに対する考え方にまで影響した。

ずっと嫌われないために、人を嫌わないようにしていた。自分が少数派に属する人間だから、他の少数派の意見も立てるべきだと思っていたし、「受け入れられる自分」を大切にしていた。どこかに敵を作らないように、多方面に向かって良い顔をして、自分の意見は二の次で、誰かに合わせてばかりいた。嫌いだ、嫌だと、言えない自分だった。

その逆に、好きだとも言えない自分だった。恋愛だけじゃない、何かに夢中になることができなかった。長年の目標は性別を変えることで、物心ついてからは夢を抱いたことはなかった。叶えるべきは夢ではなく目標で、それを達成した10年前、夢の見方がわからなくなった。気づけば自分は何も持っていなかった。

 

彼と出会って、自分が他人の顔色を伺ってばかりの臆病な生きものだと気がついたし、自分らしさから最も遠いところにいることにも気がつくことができた。そして、もしかすると鈍感なのは彼だけかもしれないけれど、他人が自分を見ていない、興味がないという事実をつくってくれたから、息をするのがずっと楽になった。

 

[集団生活の立ち位置]

交友関係を築くにあたって、どんな社会環境に身を置くかというのも大きく関係があると思う。

性別にかかわらず、人の容姿を批判することを常とする集団に身を置くのなら、集団の中で人より上に立ち、地位で防衛する必要がある。会社組織だけでなく、かつての学生生活ではこちらの方が重要だった。今でいうスクールカーストのことだが、その上位に入ってしまえば自分が正として扱われる。人と違う「特別」が、良しとされるか悪しとされるかは、残酷だけど単純だった。

 

実際のところ、学生時代の自分は性別のことで不利益を被らないよう保守的だった。

いじめられたり揶揄われたりすることを恐れ、誰かを敵に回すことは避けたかった。

中学の頃に嫌がらせを受けた経験から、高校ではあえてボーイッシュな女子のキャラ作りをして、周囲にFTMだと気づかれないよう工作していた。

入学してすぐ、中心集団になりそうなところにプッシュして友達になり、安全圏に身を置くことができた。その中では、恋人がいると当時付き合っていた彼女を彼氏に見立て、自分の行動を彼氏側の行動として話に出すことでリアリティを持たせると、魔法がかかったかのように誰も真実を疑わなかった。

この効果は覿面で、制服がスカートなだけで容姿を男性っぽくしていても、卒業までに勘付いていたのは、最も仲の良かった親友だけだった。

 

【恋愛観について】

10代で治療を終えるまで、いつか結婚して家庭を持てたらいいと思っていた。

治療して戸籍を変えれば、好きな人と結婚できる。それは未治療の自分にとって、「普通」の生き方として夢見た姿だった。

20代で治療を終えて、自分が結婚して家庭を持つことはできないと考え直した。

治療を終えたからと言って、性生活に不足があるんじゃないかとか、相手は両親の血を引く子どもが欲しいだろうとか、

結局のところ自分に手に入れられる現実は「普通」ではないのだと思い知った。

30代の今、結婚して家庭を持っても持たなくても、どちらでもいいと思っている。

「普通」を追わなくなった。多様性を強調した時代の影響もあるし、家庭に対する憧れは姉が実現してくれた。

将来添い遂げられる相手がいなくても、自分が幸せに生きられる自信がついた。

 

そもそも友達と同じで、パートナーの性別も異性でも同性でもどちらでもいいと考えるようになった。

今までストレートの異性としか付き合ったことがないけれど、それは同性愛者や両性愛者と出会う機会がなかっただけで、機会さえあればその中で恋愛に発展することもあるのではないかと思っている。

性別で人を好きになっているわけじゃないのは、少なからず自分が長年、曖昧な性を生きてきたからなのかもしれない。

 

一度、B(バイ)の女性からアプローチを受けて、そのとき初めて、ストレート以外との恋愛について考えた。

もし彼女と付き合えば、T(トランス)に対する理解も当然あるし、子どもを授かれないことについての負い目がなくなる。それは自分にとって衝撃的な発見だった。

彼女が女性と付き合っていても、彼女たちの純粋な遺伝子を持つ子どもは得られない。これまで当然のように自分が背負うべき業だったものを負わずに済む、僅かで確かな選択肢だということを知った。それがどれだけ自分にとって都合の良い話かは、当事者ならきっとわかるだろう。

 

子どもが好きな恋人と、将来のことを考えて別れたことがあった。

恋人の親から、孫の顔が見られないなんてと罵られたことがあった。

仲の良い好きな子の未来に、自分がいないように縁を切ったことがあった。

告白されてカミングアウトしたら、治らないのかと泣かれたことがあった。

10代も20代も、上手くいく人生じゃなかった。絶望も裏切りも経験した。自分の価値を一番に知っているのは自分だから、その話がどれだけ甘い蜜かは言わずもがな分かった。彼女と恋愛関係に発展することはなかったけれど、自分が傷つかない恋愛とはどこにあるのかは、何となく察しがついた。

 

30代、結婚と恋愛の違いをたくさん考えた。「結婚」とは生活の延長だというのが導き出した持論だ。

だから結婚と恋愛は最初から非なるもので、生活の上に恋愛感情がのるかのらないかが肝になる。

二人で生活をつくるものだとしたら、恋愛感情はなくても実現できる。でも、できれば一番好きな人と結婚したい。

一人でも生きていけるから、今のところ結婚という形が先行することはないけれど、未来のことは何もわからないというのが、今の自分が出せる精一杯の答え。

 

【LGBTについて】

平成が令和になったように、時代は、そして社会は、10年間で大きく変わったように思う。

どうやっても思い出せないこともあるけれど、自分が生きた12年前は今とは全然違っていた。

それは自分が幼く、無知な子どもだったからというだけではなく、そもそも性別に対する認知が今とは違っていた。

この世界には男女の2種類しかないのが当たり前で、誰もそれに異議を唱えることも、というよりその発想さえない、そういう時代が少しずつ変わり始めた転換期だった。

 

10年前、時代が変わりつつある兆候を、何となくは感じていた。「LGBT」というワードが、きっと広まるんだろうなとか、「FTM」だと名乗れる人が、きっと増えるんだろうなとか、その程度の弱い想像をしていた。

10年前の自分の予想との答え合わせとしては、「LGBT」というワードは広まったどころか、今やセクシャルマイノリティを表す言葉は「LGBT」に尾をつけて「LGBTQIA2S+」だか「LGBTQIAAPOO2S」だかにまでに細分化された。

10年で4文字から13文字、9文字も増えたのだから、その間、性的少数派の活動は甚だ有意義なものだったに違いない。

予想に反したのは、Tを名乗る人が増えたわけではないということ。「LGB」は、先進国に遅れまいと突然多様性を主張し始めた政府の動きと、世間の認知の拡大につれて名乗りやすくなったのだろうと思う。有名人が公表するようなことは、10年前なら考えられなかった。

世にTを名乗る数が増えたかと言われると、正直、セクシャルマイノリティの世界を飛び出してしまった自分には全く分からない。逆に外の世界から見ていても、同性同士でパートナーシップを結べるようになったり、セクシャルマイノリティでも子どもを持つようになったり、社会が変わったことは確かだ。

 

2023年10月、性同一性障害者が性別適合手術なしで戸籍を変更するという、衝撃的な判例ができた。

実際にその判例に乗じて、ホルモン治療のみの未オペで性別変更手続きをする人もいるようだ。きっと今の界隈じゃああちこちこのネタで紛争を起こしているに違いない。金銭的な僻みや、男性を名乗るなら子宮卵巣は摘出すべきだとか、そんなところだろう。

蚊帳の外にいる自分からすればどうでもいい。出したいやつは出せばいいし、出したくないやつは出さなければいい。

自分が語りたい性について、その臓器があるべきなのかそうでないのかは、人によるのだと思う。

 

もし自分がこの現代に未治療の立場だったらどうしただろう。子宮卵巣を摘出しても、精巣を移植できるわけではない。

健康リスクで考えても、摘出すべきなら摘出するだろうけれど、ホルモン薬で機能が停止するだけで被害がないとしたら残す手もある。

ホルモン薬が消失したとして、臓器から分泌される性ホルモンが必要になったら、臓器があった方が命の危険は免れるのだろうか。

どちらの方が健康リスクが高いのか、明確に分かっていないから決断が難しい。自分たちが実験台なのは、10年前も今も変わらないのだと思う。

今、その判例と実例ができたとして、自分は「それなら摘出しなかった!」とは思わない。

後から「摘出した方が健康リスクが高いです」と言われても、出してしまったものは戻らないし、そもそも自分は別の側面で見ても健康的な人間ではないし。

 

大人になって、というよりは社会に出て、自分はほとんど自身の性別のことが気にならなくなったし、そもそもセクシャルマイノリティに関する興味が一切なくなった。それは前述したきっかけになるような出会いがあったからでもあり、東京という土地に馴染んだからのように思う。

東京の人口は1400万人、通勤や通学で利用している人も含めれば恐ろしいほどの数になる。

日本人も外国人も、貧しい者も豊かな者も、賢い者も愚かな者も、様々な人間が行き交う街だ。

それだけの人がいるのだから、その中に男も女もいれば、当然そうでない者もいることは想像に容易い。

見飽きてしまったのだ。かつてすれ違う人を見ては「今の人、そう(FTM)だったよね」と声を潜めて話した自分も。FTMも、MTFも、中性的な男も女も、男装も女装も、特別なものではなくなってしまった。

 

一風変わった格好をしている人、様子や挙動がおかしい人、東京の日常はそういう特異的な存在に溢れている。

一般的な服を着て、真っ直ぐ前を向いて歩く、まともな男か女かわからない人より、よほど目立つ人間がいる。

東京とはそういう場所だ。人が溢れ、そして情に希薄な街だ。そんな巨大な街の一部に、自分もなった。

自分ごときがこの街で特別になれるはずもなく、今日も喧噪とともに埋もれていく。

 

【FTMについて】

手術を終えて戸籍を変え、進学し就職した自分は、セクシャルマイノリティの界隈を嫌厭するようになった。一言で言えば、同族嫌悪のようなものだったと思う。

自分の心を守るために誰かを貶めたり、騙したり、傷を舐め合ったり、そういう弱い者たちの非生産的なやりとりに疲れてしまっていた。

誰かと比べ続けることは、決して自分の為にならないとわかっていた。

情報交換のためと銘打っても、そのしがらみとは簡単に線を引くことができない。

同じセクシャルマイノリティの輪の中にいたほうが、自分を偽ることなく、自分らしく?いられるのかもしれない。

それが楽で居心地がよければそれもまた良し、FTMとして生きるというのはそういうことだ。

自分はずっとそうではなかった。いつかは男として生きたい、そう願っていたから、いつかはその場所から卒業しなければならなかった。

 

でも、同族嫌悪してしまう自分に対する嫌悪というのもあった。同じように自分も悩んでいたのに、悩む人の苦しみを少しでも軽くしたいと思っていたのに、

自分に寄り添ってくれる人や頼りにしてくれる人から離れることを裏切りだと感じ、変わってしまった自分への戸惑いも大きかった。

勇気を出して弘祐に胸の内を明かしたとき、彼は真摯に話を聞いた上で共感してくれたけれど、あのとき本音など言わずに、適当な嘘を吐いたほうがよかったのだろうか、と今でも思う。

もしかしたら彼にとっては必要な場所で、それを機に彼から居場所を奪ってしまったのかもしれないから。
 

僕は界隈を離れただけで、ブログも、X(Twitter)のアカウントも残しているけれど、時代の移ろいと共に人々は拠点を変え離れてしまう。

Instagramはやっていないし、LINEのアカウントを一度変えてしまったことで、僕はいよいよその拠点を去った者たちと二度と連絡をとることができなくなってしまった。お世話になった人とも、仲良くしてくれた人とも、苦楽を共にした人とも。

今でも時々思い出しては、元気にしているだろうかと思い馳せることがある。彼らがどこかで幸せに、自分の望む人生を歩んでいられたらいい。

 

SNSの普及発達で、同じ境遇の人間と出会うことや情報収集は容易になった。目に見えて存在を感じられることで、孤独感は薄れたのではないかと思う。

でもその分、自分と他人の差に苦しむ人も増えているのかもしれないとも思う。

社会問題にまでなっているSNSによるルッキズムの顕在化で、生まれ持った容姿を受け入れられなかったり、家庭や生活環境の格差、治療の進度も、人と比べられやすくなった。繋がり合うことで救われることも、追い込まれることも容易い世界になった。

もしつらくなったら、苦しくなったら、思い切ってその場を離れたほうがいい。情報は必要かもしれないけれど、それ以上に自分を追い詰めるものがあるのなら、SNSで得られる情報など捨てて自ら切り開いてしまえばいい。

 

最近は皆さん筋トレに励まれているみたいで、体をムキムキに鍛えてジムの鏡の前で写真撮ってアップする、そういうのが流行っているんですかね。

 

完全埋没している自分も、今の自分に満足しているけれど、界隈に戻れば今のようにはいられないのではないかと思う。

自分より美しく、逞しく、男らしい当事者は五万といるだろう。より綺麗な治療ができた者も、地位や名誉を手に入れた者、家庭を持って子どもを持つ者、理想というのは追求すれば終わりがない。他人と比べた先に幸せなどないと思っている。自分と向き合い、自分が何を大切にしたいか、何が幸せなのかを問うこと、その幸せを目指して進むことが、幸せになれる最短距離だと思う。この界隈に戻ることのできない理由のひとつだ。

 

縋ることのできない場所へ自分を追い込み、苦しみもがきながらでもその目指した場所に根を張る、不器用なりにでも、それが自分のやり方だった。

そうしてほとんどのFTMの知人と縁を切ってしまった。極端で過激な手段をとったとは何度も思ったが、後悔しているわけではない。その先にある今が、ちゃんと幸せだから。

 

[10年を振り返ったきっかけ]

界隈を離れて順調に生活を続ける自分が、節目だとここに戻れた理由。

このブログを遡ればわかる話だが、12年前、このブログで出会った高校生がいた。年はひとつ下、遥か遠くの北の大地に住んでいて、お金も社会経験もない学生時代に、一度だけ飛行機に乗って会いに来てくれたことがあった。

SNSが普及していなかったあの頃、自分はここで出会う数少ない同士に何度も励まされ、同じように励ました。今はもう、指先一つのいいねで共感を簡単に集められる時代になったけれど、あの当時、共感はコメントという形で投げかけられて、そんなたったひとつの共感に、震えるほど心を動かされたものだ。

今でもLINEで繋がっているのはもうたった一人、12年前このブログにコメントをくれた彼だけだ。

 

ずっと繋がっていたわけではない。界隈を抜けたとき、同じように彼とも連絡をとらなくなり疎遠になったけれど、自分の気持ちが落ち着いた頃に、気まぐれで連絡をしたんだったか。LINEは自分がアカウントを変えてしまっていたから、XのDMでだったような記憶がある。

思い返せば、そのとき今さら何だと拒絶せず、以前と同じように慕ってくれた彼には頭が上がらない。

家族のことや手術のこと、彼は自分よりよほど乗り越えるべき障害が多く苦しんでいたのに、最後まで行く末を見届けることなく、一方的に界隈を抜け出してしまったのだから。

 

それから細々と連絡を取り続け、出会って12年が経った今年、彼から上京を考えていると連絡をもらった。一度東京に行くから、会ってくれますかと言われ、彼とは実に10年ぶりに、東京での再会を果たした。

10年前に会ったとき、まだ治療をしていなかった彼も、今やすっかりごつくなり、髭剃りで剃刀負けして肌が荒れると悩みをこぼす立派な男性になっていた。

約10年かけてようやく治療がひと段落し、金銭的にも精神的にも余裕ができたことと、仕事の状況が落ち着いたこと、今年30歳を迎えること、様々な理由が重なって、上京という結論に至ったらしい。10年かけて家族の反対や職場への理解、治療を乗り越えきたのだと思うと、他人事ながらに胸が熱くなった。

もし実現できなくても、実現したとして東京が肌に合わずに戻ることになっても、彼の勇気と行動力を、勝手ながら知人として誇らしく思う。

 

そんなこんなで、彼との10年ぶりの再会をきっかけに、こうして月日を振り返ることができている。

 

【30歳の自分について】
今の自分が幸せだと思えるのは、自分を大切にできているからだと思う。

がむしゃらに生きた10年があるから、ここまで生きてこれた自分を受け入れられる。

10年経った今、自分には好きだと思える、精神的に満たしてくれるもの、依存できるものがいくつかできた。

昔はそれがなかったから、恋人や友達に執着していた。
 

自分らしく、それがずっとわからなかった。相手に合わせてばかりで、本当の自分がいなかったからだ。

10年経ってようやくわかる。現実主義で、冷静だけど冷酷でもあり、温かい人間なんかではないこと。でも義理堅くて強い信念に動かされてる。計画を立てるのが苦手で感覚的、行き当たりばったりやノリで行動することもある。くよくよしないで気持ちの切り替えが早い。好き嫌いがはっきりしているけれど、仕事とプライベートはきっちり分ける。

 

30歳近くになって、ようやく自他の同一化から脱却できた。好きな人や大切な人にほど、自分と価値観が同じであってほしいという願望からくる押しつけ。思い通りにならないと苛立ったり、裏切られたような気持ちになっていた。思い返せば依存の一種だったのだと思う。自信がないから他人に依存して、肯定を求めたのだと思う。

 

つまり10年かけて、やっと自分にそこそこは自信が持てるようになったということだろう。自分の歩んできた道を振り返って、こんな自分でも歩いて来られた事実があると、根拠を持って自分を肯定できるようになった。10年もかかってしまった?10年しかかからなかった?地盤を固めるという意味では、有意義な10年だったと思う。

誰にも媚を売りたくはない。曖昧に笑うこともしたくない。

嘘を吐かずに生きていくことは難しいけれど、せめて自分には嘘を吐かないように。そう思って毎日を生きていく。

 

過去の自分が誇れる自分でいたいと思う。そして今の自分が知って誇れるような自分に、これからも変わっていきたいと思う。

5年後、10年後の自分が、同じように笑っていられるように。

 

2024.06