ぼくは、よく夢を見る。


たいてい幸せだなと感じる夢は、学校の夢だ。

そのときの、失われてしまった幸せなじぶん、愛されるじぶんを、夢のなかで噛みしめている。


そこに感じることのひとつは、子どものころに対する、ユートピア的羨望である。


しかしもう、失われてしまった。あるいはもはや、わたしには存在していなかったのだ。


じぶんには、ない。そう、そもそもそういうものを、創り上げる力がなかった。悲しく、寂しいことだった。そういう気持ちがあるから、夢で満たしているのだ。


それどころか、学校生活は苦しいものでもあった。ほんのわずかな悦びが、あっただけにすぎないのだ。


そのようにじぶんにはない、欠けている、苦しいという感覚が、無意識のうちにいまでさえもぼくを、締め付けているのだった。


だから、いまでもどこかで、失われたものに追い立てられ、回復しようと努めてしまっている。


しかし、実態は逆なのだ。


そのようなイメージを、そのような可能性を、そのような希望を、創り出しては抱いてしまうのは、まさにわたしだから。


ひとは、喪失という経験を、創造する。

それによってひとは、よくもわるくも外へ駆り立てられていく。


失っている、という思い込みなのだ。そしてそれに、駆り立てられている。それを、創っているのは、ぼくに他ならない。ならばぼくは、創るちからがある。なら、創っていけば良いのだ。