こんばんは

 

 

 

8月の陽気はどこへやら。9月に入って心なしか涼しい日も多くなって、窓を抜ける一陣の風に秋の足音を感じずにはいられませんね。まだまだ日差しの強い日も多いですが今年は夏が短かった分、秋が長くなればいいですね。

 

 

 

 

秋といえばスポーツの秋。今年はとてもそんな雰囲気じゃないですが、本来なら今の時期はインカレもちょうど終わったくらいで、次のシーズンに向けて心を新たにする頃なんですよね。ところがぎっちょん今年はCOVID-19の流行もあって外出する機会が減ったからでしょうか、なんだか季節の流れを感じないというか時間の経過が平坦というか、とにかくいつもの半年よりも短く感じました。振り返ってみればあっという間だった、なんていい方をすればちょっとは格好もつくのでしょうが、実際のところは変化や刺激のない生活に我々の鼻が鈍り、耳が塞がり、目が盲いただけなのでしょう。つまるところ、顧みれば過去半年間の間に感じた刺激が経過した時間に対しあまりに空虚だったということに違いありません。(尤も、これはさほどCOVID-19の影響を致命的には受けなかった一学生の視点に過ぎず、その影響によって生活の基盤や一生の思い出、夢を奪われた人々から見たこの半年間の長さ、濃密さはいかばかりでしょうか。想像するだにおえません。)。

 

 

 

 

 

 

とまあ、暗い感じになってしまいましたが暗いのなんか世の中だけで十分ですよね。このブログでは明るいとまでは行きませんが少なくともフラットな話題を提供できればと思います。というわけで今日のブログはいつの間にか最高学年になっていた3年のスズキがお相手いたします。競泳陣に入ったのはついこの間のような気がするのですが…。

ともあれ拙筆ご容赦の程を。

 

 

 

 

 

 

 

 

まず今日のメニューはこちら

 

 

新保(2)作のメニューで、本人曰く

 

・泳いでいる感覚と実際のタイムのズレを認識する(スピードコントロール)

Kick,Pull,Mainのすべてにおいて、「このくらいのスピード感、疲労、ストローク数なら◯秒くらいかな〜」ってのを意識しながら泳いでみてください。

 

とのことでした。

簡単に言ってくれますね。とほほ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日のメニューは参加できませんでしたが、昔からこういうメニューは苦手です。

1発ドカンと飛ばすメニューや、長いサークルで高い水準をキープするメニューは得意なのですが、7-8割のペースで泳ぐのが難しいんですよね…

今日の練習に出た人はお疲れさまさまです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はてさて、これ以上特に話すことは無いのですが、久々のブログですのでボクの夏の過ごし方でも振り返ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とは言っても大半の日は家でゲームをやっていて、たまに予定が合えば誰かと遊びに行ったり、ふと思い立って映画を見に行ったりといった日々でした。

河村ほどじゃないですがジブリも好きなのでちょうど映画館でやっていたもののけ姫と千と千尋は見にいって来ました。いやあなんというか大人になって見ると子供の時には気づかなかったメッセージに気づいたり、同じシーンでも感じ方が違かったり、感じるところが多かったです。友人曰くyoutubeに上がっているジブリ考察系の動画(ちゃんとしたものを探しましょう)を見てから行くと、より今まで見えなかった作者の意図が見えて楽しいそうです。予習ってやつですね。

まあ映画の楽しみ方なんて人それぞれなので、ピュアな気持ちで映画見たいという人や、何も考えずボケ-っと見たいという人、感情を発露させる触媒として、あるいは興奮剤として消費したいという人、映画を見た(あるいは映画に誘う?)という事実の方がむしろ大事な人、それぞれの楽しみ方で映画を愉しめばいいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の楽しみ方はどちらかと言えば、映画を見ている人たちの方です。

偶然巨大な密室に居合わせた赤の他人にして隣人たる諸氏が一体どんな人で、どんな経緯で誰とここに来て、そしてどこへ行くのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと乱暴な言い方で恐縮ですが、出来の悪い映画よりよっぽど面白いストーリーがそこにあるような気がしませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

共感してもらえる人としてもらえない人がいるでしょうが、少なくともこのブログを読んでいる人の中でもし今後ボクと映画を見に行く機会がある人がいれば、目障りかもしれませんが上映中に隣の席でキョロキョロ辺りを見回すのをお許しください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう言えばジブリと言えば様々な都市伝説があることで知られてますよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有名どこで言えば「トトロはじつは死神で、サツキとメイは死んでいる」とか。

 

 

 

 

 

 

「宗介とポニョが通ったトンネルは死後の世界への入り口」とか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあその内容は「これは」と思うものから「いや流石に」と思うようなものまで玉石混淆といった具合ですが、これほどの多様性は都市伝説というジャンルが人の好奇心を刺激してやまないのだという証左でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとした都市伝説好きを自称するスズキ(実は初年次ゼミのレポートも都市伝説について書きました)としても今まさに去りゆく夏という都市伝説の季節を惜しみつつ、他に書くこともないので、ここでちょっと都市伝説について二三語りたいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず「都市伝説」という語の定義についてですが、これはジョン=ハロルド=ブルンヴァン氏というアメリカの民俗学者・社会学者が1981年に著した『Vanishing hitchhiker』(邦題:消えるヒッチハイカー)で用いられた”urban legend”という著者の造語をそのまま和訳したもので、ブルンヴァン氏によれば

 

都市伝説は、口述の語りの下位のクラスである伝説に属する。それは、おとぎ話と違って、人々が信じているもの、少なくとも信じることができるものである。また、それは、神話とも違って、最近出現したものであり、古代の神や半神半人ではなく、ごく普通の人間が登場するものである。つまり、伝説とは口述の歴史なのだ。あるいは、むしろ疑似的な歴史とでも言うべきものだ。

 

だそうです。これではちょっと何を言いたいかわかりにくいので、日本人の都市伝説研究者である宇佐和通氏の定義を参照すると

 

“友達の友達”という、決して近い間柄ではなく、特定もできないが、実在することがかすかに感じられる人が体験したものとして語られる、起承転結が見事に流れる話。

 

また、松山ひろし氏によれば

 

『友達の友達』など身近なようで実際には顔も名前も解らない人々に起きた出来事として語られる奇妙な噂話。

 

だそうで、総合すれば大きく以下のような特徴が挙げられそうです

 

 

 

 

 

①     どんな荒唐無稽な話であっても「本当にあったこと」として語られる

 

②     「友達の友達」というような架空でありつつも実在していそうな存在が体験した話であると語られる

 

③     話として面白い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうして特徴を挙げた上でかつて小学校の放課後に友達から聞いた「トイレの花子さん」や「口裂け女」、「ターボばばあ」や「てけてけ」、その他もろもろの怪談を思い出してみると、

どれもやはり①~③の特徴を備えているわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

特に重要な特徴が③であり、実際のところ日常会話のネタとして消費されるツールである都市伝説は面白くなければ、人に語られなければいずれ忘れ去られてしまう以上、必然的に生き残った都市伝説にはある程度面白くするべく改変がなされていることが多いのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最もよくある例の一つが「舞台が身近な場所に変えられる」というような改変で、聞き手にとってより身近で、話に具体性と真実味をもたせる効果を得られることから、多くの都市伝説で確認されている現象であり、もしかしたらこのブログを読んでいる人の中にはそういった都市伝説を聞いた心当たりがある人もいるかも知れませんし、もしかしたら「話を面白くするために自分がそのように改変した」経験がある人もひょっとするといるかも知れない。そうでなくとも、話を盛り上げようとして少し誇張して話してしまうといった経験は誰にでもありそうなもんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、ここからが本題なのですが、現代の都市伝説の多くは上記の3つの特徴(特に②)に当てはまらないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

例として近年テレビでも取り上げられることが増えた「きさらぎ駅」を見てみましょう。

「きさらぎ駅」の内容を知らない方向けにちょっとそのあらましを昔書いたレポートからひっぱってくると、

 

 

 

 

 

 

 

   2004年1月8日23時14分に2ちゃんねる(当時)のオカルト板に「はすみ」を名乗る人物から書き込まれた相談を発端とするものである。書き込みによれば、「はすみ」は新浜松駅23時40分発の私鉄に乗っていた(繰り返すが「はすみ」による最初の書き込みは23時14分に行われた)が、気が付くと「きさらぎ駅」という名前の実在しない駅に迷い込んでいた。その書き込みに対するインターネット上の反応・助言に基づき、彼女は隣の駅を目指してトンネルを徒歩で抜けつつ、その様子を実況した。トンネルの手前で「片足のないおじいさん」に声をかけられるなどの恐怖体験に遭ったものの、その後「はすみ」は偶然出会った「親切な人」に車に乗せてもらう。しかし、その車中で彼の異変に気付いた所で書き込みは途絶えるといったものである。最初とされる「はすみ」の書き込みののち、「きさらぎ駅」に来たと称する複数の書き込みがインターネット上やSNS上に投稿され、「きさらぎ駅」からの脱出法が「発見」された。現在までに、確認できただけで「はすみ」を含め、6人が「きさらぎ駅」に行ったとする旨の書き込みをしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

といった具合です。都市伝説大好きな諸氏には釈迦に説法だったかもしれませんが、

ここで特に注目したい点は体験者が「友達の友達」から「私」になった点です。

宇佐氏にしろブルンヴァン氏にしろ、都市伝説の定義の1つにも含まれた「友達の友達」がいなくなっちゃったのですからこれは事です。ネットで広まる都市伝説(ネットロア)は従来の都市伝説とは質的に異なるものなのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、インターネットの匿名掲示板という環境を考えると、恐らくはそうではないということが伺えます。少なくとも話の出どころが追跡できないという点には依然変わりゃしないのです。ここからは自説なんですが、この現象はおそらく都市伝説においては3つの特徴のうち③が最も優位であり、インターネットというフォーマットにあわせて最も娯楽性の高い形態を「話」がとった結果ではないかと思うのです。つまり、従来都市伝説の根幹的特徴のように見えていた「友達の友達」という存在は「口承」というフォーマットに最も適応的であるがゆえに用いられてきた要素であり、実体か影かといえば影に属するものなんじゃないでしょうか。あくまで自説なんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とまあここまで語って来ましたが、ここ半年で僕らを取り巻く環境も大きく変わりました。大学の授業もオンラインになり、オンライン上で人と話す機会も大きく増えました。コミュニケーションの形態が変わるということは、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今までの流れからお察しの通り、語られる都市伝説の形態も変化していくんじゃないかなとボクは感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この不可逆とも思える変化は果たして都市伝説にどんな影響を与えるのでしょうか。

いくばくか涼しくなったとは言えまだ蒸し暑い夜にはピッタリな思索の種なんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もっと書きたいことはあるのですが、ここらへんで失礼したいと思います

 

長々とお付き合いありがとうございました。

 

p.s.

最近暇なので家のベランダで小さなハーブ園を育てています。

特にメキシカンスイートハーブなんかが割と順調なので、株分けとかしてほしい人がいれば練習中とかに言って下さい。

もう夜になってしまい、写真が撮れなかったので拾い画です。