はじめから終わりまで重厚な雰囲気の映画だ。

 

 物語は複雑なのであらすじは省略するが、中心はこうだ。

 

 藩の世継ぎ争いがらみのもめごとで、幕府による御家(おいえ)取り潰しを恐れた藩では、もめごとの原因を家臣の戸田(役所 広司)が藩主の側室と密通したということにし、

戸田に切腹を命じる。

 

 普通ならこれは「濡れ衣」だが、戸田は御家を守るためと了解し、弁明もせず切腹に応じる。

 

 切腹の場に赴く戸田の姿は荘厳で潔く、哀感とともに美しく描かれており、涙を誘う(かに映る)。

 

 武士道の核心が藩主=御家に対する忠誠にあるとすれば、この切腹も武士としての忠義の証ということになろうか。

 

 しかし身に覚えのない密通の罪をかぶるとは、本人も家族も納得しがたいのが普通。

 

 映画では、その切腹の妥当性に疑問を抱いた監視役 壇野(岡田 准一)が戸田に尋ねる。

 

 それは「戸田様の名誉にかかわることではありますまいか?」と。

 

 戸田は答える。

「名を捨ててかからねばならぬのが御奉公」と。

 

 戸田は不名誉をかぶることも忠義の内と割り切っているのだ。

 

 この点が一般に描かれる武士道をさらに一歩進めた作品となっており、その意味でこれは究極の武士道とでも評すべきものだ。

 

      

 

 江戸時代だからこそ、こんなことが許され、美徳として讃えられたのかも知れない。

 

 だが、よく考えてみれば、こんな理不尽があってよいものだろうか。

 

 ぼくなら真っ平だ!と拒みたい。

 

 さて、そんな時代を過ぎた今、ぼくが思うに、自由に自身で考え行動するのが普通の人の姿。

 

 原作者や製作者たちは、今を生きているぼくらに武士道によるむごい死の強制を事実上肯定的に描くことによって、いったいどんなメッセージを送ろうとしているのだろう?

 

 これが時代錯誤でなくて何なのか!

 

 こんな時代劇が跋扈するようでは時代劇に存在価値はない。

 テレビで放映された30年ほど前の作品(スタジオジブリ)。

 

 二人の登場人物

 天沢聖司 バイオリンづくりの職人になることを夢見る中学3年生。

 月島 雫(しずく) 読書好きで図書館によく通う中学3年生。

 

 中学を出たらすぐイタリア(クレモナ)に留学すると決めた聖司、その話を聞き、雫ははっきりした目標のない自分にあせるが、前から考えていた物語の執筆に邁進することに・・・。

 

 お互いの夢を確かめ合い、結婚の約束で映画は終わる。

 

    

 

 ぼく自身が中学3年生だった頃、雫と同じようにあせったことがあった。

 

 ぼくの友の一人が小学生時代から教師になる!と決め、それをぼくに話していたからだ。

 

 確かに彼は快活で、みんなをひっぱっていくリーダー的な存在。

 

 きっとたくさんの生徒たちから慕われる先生になるだろうと思った。

 

 その影響でぼくも教師になることを考えたこともあったが、それほどの熱意は湧いてこなかった。

 

 その後、バーチェットというジャーナリストが当時の南ベトナムに潜入して著したルポ「素顔の解放区」を読んで感動、報道という職業に憧れたこともあった。

 

 が、これも憧れ以上には出ることはなかった。

 

 結局、ぼくはごく普通の職業で人生を通すことになった。

 

 教師を志したぼくの友、意外にもふつうの働き手となった。

 

 が、この映画の主人公たちをみると、将来に夢をもつだけでなく、それに向かって邁進している。

 

 もちろん、彼らの夢が実現するとはかぎらない。

 

 いや、失敗する可能性の方がずっと高いだろう。

 

 でも、そのときはまたやり直せばいいのだ。

 

 映画の世界ながら、若い二人に思わず声援を送りたくなってしまいそうだ。

 

 これは架空の話ながら、もし彼らが実在したら今やすでに40代半ば。

 

 聖司はバイオリン職人になれたろうか、雫は物書きになれたろうか?などと想像してしまう。

 

 ぼくにとってはとっくに過ぎ去ってしまった青い時代のこと。

 

 とっても素晴らしい作品だ。

 以前に話題になった映画だ。

 

 製作から20年以上を経た今、改めてテレビでみてみた。

 

 明治維新後の日本政府が軍隊創設のため、米国の軍人オールグレン大尉(トム・クルーズ)を招請。

 

 大尉は軍隊教練に努めるが、当時の士族軍との最初の戦闘で敗れ、捕虜となって士族の村へ。

 

 そこで領袖 勝元(渡辺謙)に出会い、彼の武士道精神や価値観に共感、やがて士族の軍に身を投じ共に政府軍を相手に戦うが、勝元らは全滅して標題通りの「ラストサムライ」に。

 

 以上があらすじだ。

 

    

 

 映画では、武士道に生きるサムライたちの誇り高さ、礼儀正しさ、自分への厳しさ、勇気などが語られ、そんな武士たちに交わるなかで大尉が共感していく過程をていねいに描いている。

 

 物語は高潔な人格もったサムライたちと明治政府の実力者「大村」なる胡散臭い男との対立を軸に展開される。

 

 そのかぎりではこの映画は勧善懲悪的な作品で、サムライたちはヒーローとして登場する。

 

 しかしこの映画で語られている武士道の倫理は、元々は藩主への絶対的忠誠という前近代的な人間関係を核としたもの。

 

 ぼくとしては、それらを部分的に切り取ってつなぎ合わせたような武士道の描き方はいただけないと感じるがどうだろう。

 

 娯楽作品として割り切るならともかく、内容的には大いなる時代錯誤の感がする。 

 

 が、それにしてもこの種の作品は珍しい。

 

 日本人が武士道を取り上げることはよくあるが、米国人がそこに共感して映画を創るというのはあまり聞いたことがないからだ。

 

 製作者たちの意図はどうだったのだろう?

 

 そこのところが興味深い。

 

 大阪地検の元検事正から性的暴行を受けた女性検事 ひかりさん(仮名)が辞表を出した。

 

 一時は起訴内容を認めていた元検事正 北川被告だったが、

その後無罪主張に転じたと聞く。

 

 酔って抵抗できない相手を官舎に誘い込んで暴行!卑劣な犯行だ。

 

 「同意があったと思った」などという使い古された釈明を耳にすると、ハンマーで顔に穴をあけたくなってしまいそうだ。

 

     

 

 しかし、ここにきてひかりさん、彼女が望んだ「第三者委員会の設置」は遠のき、職場内での中傷などで次第に追い詰められているようにみえる。

 

 ひょっとすると、この悪行は裁かれるどころか、あたかも何事もなかったように霧散させられるのでは?などという予感さえしてくるのだ。

 

 が、そんなことが許されたら弱い者、名もない者の居場所はなくなってしまう。

 

 ひかりさん、負けんといてや!

 

 あんな卑劣な男、検察の高い位置におさまっていたなど、そんな世の中はどう考えてもおかしい!

 BS「ワイルドライフ」で「北米イエローストン よみがえる草原の守護者 バイソン」(撮影者 動物写真家 原田純夫さん)があった。

 

 イエローストンと聞いて思い出すのは、オオカミの駆除、その後 再びオオカミを導入した話だ。

 

 今回、その事情をより詳しく知りたいと、改めて番組をみた。

 

 牛の仲間で草食のバイソン、元は米国からカナダにまたがる広大な地域に3000万~6000万頭もいたらしい。

 

 が、17世紀、入植者たちが毛皮や肉をとることに加え、娯楽(射撃)のために乱獲。

 

    

 

 一時は絶滅と言われたが、幸運にもイエローストンで23頭の棲息が確認され、その後、1872年 この地域9000平方キロメートルを国立公園に指定して保護、順調な回復をみたという。

 

 オオカミについては、100年前に駆除で絶滅、しかし30年前に再度導入。

 

 その直接のきっかけは、オオカミ不在のあとアカシカが増えすぎ、森の樹木の皮をはいでしまい、森林被害がひどくなったからだそうだ。

 

 オオカミの存在はバイソンの増えすぎにも抑制効果を生むという。

 

 自然の均衡というものはとても繊細で興味深いものだ。

 

 しかし人間の「娯楽(射撃)」による乱獲とは痛ましい。

 

 多くは撃って放置するだけというからなんと入植者たちの愚かしいことか。

 

 ひとつ感心したのは、バイソンの子が凍った池に開いた穴に落ち、もがくシーンだ。

 

 原田さんの話では、これを助けることは禁じられているということだ。

 

 それは自然のままに・・・という趣旨で、傷ついた動物を助けることも同じだという。

 

 病気、ケガ、事故などで失われる命は、転じて他の動物の糧になる、その自然の仕組みを尊重するということなのだそうだ。

 

 国立公園指定の考え方の中には、過去の乱獲などへの反省と自然への深い洞察とが共存しており、それが現在の強い自制につながっているようで、すばらしい。

 

    

 

 となると、シカやクマ、イノシシなどに悩まされる

我がニッポン。

 

 この悩みはどう解けばいいのだろう?

 

 自然との共存、行うは難し。