寒波、大雪のなかの総選挙・・・と批判も多かったが、

フタを開けると投票率は増。

 

 しかし驚いたのは結果の激変ぶりだ。

 

 少数与党で薄氷の上を歩むかのごときだった自民が圧勝。

 

 他方、1+1がいくつになるかと話題だった中道が

=1マイナスという惨敗。

 

 旧立憲の安住、馬淵、岡田、逢坂、枝野・・・と有名幹部は次々に落選という衝撃。

 

 野田代表は責任をとって辞任というが、後継者は果たして残っているのか?

 

 さて、圧勝に導いた高市総理。

 

        

 

 高市さんの街頭演説に耳を傾けた人へのテレビインタビューへの答えを聞くと

「戦争臭さはあるけどメリハリがいい」

「かわいい」

 

 なるほど、しかし政策への共感というわけではなさそう。

 

 そのあたりは気になるところだが、まあこうした旋風を支えるのはいつも選挙民のそうした「感覚」が大きい。

 

 もっとも、いわゆる裏金候補をも軒並み許してしまうかのような旋風のすごさにも困ったものだが。

 

 ぼくとしては、野党が少数与党の弱みに乗じるかのように財政出動の必要な要求を次々に出していく状況に歯止めがかかるなら歓迎だ。

 

 しかし、今後この圧勝が例えば防衛費の際限ない拡大など暴走に道を開くならば困ってしまう。

 

 かつての森友学園や加計学園の問題を思い出させるような事態の再来だけは避けてほしいと思うからだ。

 

 さて、どんな政治が始まるのだろう。

 映画「赤ひげ」は、徳川幕府が貧しい病人の救済のために設けた小石川養生所、そこで所長を務める通称「赤ひげ」

(三船敏郎)と長崎帰りの若い医師 保本(加山雄三)との交流を描いたものだ。

 

 内容を要約すれば、長崎で学んで江戸に帰ったばかりの

保本は幕府の御番医になるものと思い込んでいたが、小石川養生所勤務を命じられて失望し、当初はふてくされるが、

赤ひげの医師としての技量の高さや患者への洞察力などに次第に感服。

 医師としての栄達の道を捨て、

赤ひげのもとで働くことを決意するに至るというもの。

 

 保本の医師としての生き方の転換は感動的である一方、

映画に登場する人々はみんなとても優しい。

 

 あたかも人というものは本質的に「善」なのだと言っているかのようだ。

 

 おそらく原作者 山本周五郎の人間観がそこに現れているのだろう。

 

 ただ、ぼくにはそれはデキ過ぎでは?という感想も捨てきれない。

 

     

 

 舞台となった小石川養生所は実在したもので、享保の時代から幕末まで約140年にわたって続いたものらしい。

 

 その実態がどうであったかは知る由もない。

 

 ただ、映画の冒頭で養生所の先任医師 津川が初めて養生所を訪れた保本を案内して語る場面は示唆に富む。

 

「ここはひどいところ」

「患者はノミとシラミがたかったはれ物だらけ」

「(患者たちは)生きているより死んだ方がマシな連中ばかり」だと。

 

 先任医師 津川にとって小石川養生所はそんな不本意な勤務先だったのだろう。

 

 養生所は元々いわば幕府の温情で作られた施設であり、医師をはじめ関係者の患者に対する立場は総じて強いはず。

 

 患者たちは医師に対してだけでなく、賄い婦に対してさえ立場は弱かったのかもしれない。

 

 患者たちを蔑む津川医師の眼差しは、養生所関係者の多くの者のごく普通の感覚だった可能性もあるのだ。

 

 そう考えると、ぼくとしてはこの映画の優秀さを認めつつも、一連の優しさにはどことなく「つくりモノ」臭さ、それ故に通俗性を感じてしまうのが残念なところだ。

 

 BSで「夜の大捜査線」をみた。

 

 作品賞を含むアカデミー賞5部門に輝いた作品で、

ご存じの方も多いことだろう。

 

 ぼくも映画のタイトルだけは知っていた。

 

 ミシシッピー州のスパータという町に帰省したフィラデルフィア警察の敏腕黒人刑事ティップスが当地で殺人犯と誤認され、逮捕されるところから物語は始まる。

 

 幸いティップスは警察手帳を見せることによって疑いはとけ、そこから犯人逮捕に協力し、めでたく事件は解決に至るというもの。

 

 しかしここで描かれている犯人逮捕劇には重いメッセージが含まれている。

 

 1960年代南部のこと、警察官たちはもちろん、

署長でさえも差別心を隠さない。

 

 市民に至っては「黒人お断り」の飲食店があるなどあからさまな差別がそこここに。

 

 展開は黒人嫌いの署長が、ティップス刑事の優秀さを見せつけられ、次第に見方を変えていく形をとっている。

 

 映画のラストでは、列車に乗るティップス刑事を署長が駅まで見送りに。

 

    

 

 それはティップスを犯人と疑って悪かった、刑事としての腕を見誤って悪かった、世話になった・・・気恥ずかしさでなかなか素直になれない署長の気持ちをよく表したすばらしい場面になっている。

 

 ただ、それにしても映画でみるかぎり、署長は黒人差別を改めたわけではない。

 

 ティップスの手腕に対する敬意と感謝、親しみが入り混じっておりはするが、である。

 

 おそらく、人の内なる差別心の氷解というものは、そういう複雑な心理の交錯を伴いながら長い時間をかけてゆっくり進んでいくのだろう。

 

 その意味で、この作品は教科書的作品とは異なるリアリティにあふれた秀作だ。

 

 60年代から半世紀あまり、

この社会はどこまで進んだのだろう。

 またまた選挙。


 さて、今回の課題のひとつは消費減税だ。


 チームみらいを除き、全野党が消費減税を主張。


 高市総理自身は前向きのようにも見えるがまだ断言はせず、与野党でつくる「国民会議」で決めるとの姿勢だ。


 そりゃあそうだろう。


 減税する場合の財源探しは難問だからで、歴代総理たちも首をタテに降ってこなかったのだ。


 財源案として、中道の野田氏は政府系ファンド創設で運用益を充てるなどと言っているが、そんなものは不安定でアテにならない。


 税収の上振れ分を充てるという議論も同じだ。


 また、大企業や富裕層から・・・という財源案もあるが、実現の壁は高い。


 要は、財源は?と問われるから「とりあえず」準備した回答としかぼくにはみえないのだ。


 先のガソリン暫定税率撤廃でも課題となった代替財源措置、それもまだ放置されたままではなかったか?


 政治家たちは、選挙民の人気を得ようと「手柄」を競うが、不人気な負担の話からは逃げているように見える。

 

     


 消費減税を強行すれば、現状では結局赤字国債にいきつくことになるだろう。


 しかし、借金のさらなる積み上げは深刻だ。


 実際、市場は財政規律のゆるみを予測して、国債の長期金利が急速に上がり始めている。


 高市総理が消費減税に慎重なのは、行政の長=最終責任者として当然のことだ。


 野党の党首とはその立場が違い、それ故に責任が違っているのだ。


 街のインタビューでは消費減税を歓迎する声が多い。


 が、人々がその危うさに気づいているとはとても思えない。


 政治家たちはその危うさを知りながら赤字国債の発行を黙認し続けてきたのであり、それが積もり積もって1100兆円もの借金の山を築いてしまったのだ。


 政治家たちは迎合をやめ、「本当のこと」を語るべき、と思うのだがどうだろう?

 1月26日、東京地裁が北朝鮮に対し、脱北者たち4人に8800万円の損害賠償をするよう命じた。

 

 これは1950年代から1984年まで続いた北朝鮮への帰還事業で、北朝鮮が自国を「地上の楽園」と宣伝して帰還者を募ったのは虚偽にあたることを地裁が認めたものだ。

 

 ぼくはこの事業のことを「キューポラのある街」(早船ちよ 著)を読んで初めて知った。

 

 日本でひどい差別を受けていた在日朝鮮人たちが希望に燃えて祖国に帰る姿にとても感動したことを覚えている。

 

 しかしぼくが「地上の楽園」が大ウソだったことを知ったのはずっと後だった。

 

 実際ひどい話だ。

 

 しかしもっとひどいのは、失望して日本に戻ろうとしても許されなかったこと、また後から続こうとする帰還者にその実態を伝えようとしても、それも許されなかったことなどだ。

 

     

 

 それはともかく、賠償を命じられた北朝鮮がそれに応じるとは思えず、原告たちはこの先、どのような歩みを考えておられるのだろう?

 

 とりあえず、この判決を得るまでには、高裁での差し戻しなどがあり、簡単ではなかったようだ。

 

 今はとにかく原告や支援者たちの労をねぎらいたい。