私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められ たではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたので あり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義 とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
―ヤコブ2:21~23-
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
―エペソ2:8~10-

ヤコブ書を学んできましたが、一旦結びにします。入門の入門の学びでしたが、改めて教えられた事も多かったと感じます。ヤコブ書は新約聖書の中でも初期に書かれたもので、異色の書と言われます。他の新約聖書のように、イエス・キリストの福音や復活の希望について語られず、信仰による救いも語られていないからです。かの宗教改革者ルターはヤコブ書を藁の書と評したと言われています。信仰による救いを強調しているローマ書との間に一見矛盾を感じますが、ローマ書は救われる前からの視点、ヤコブ
書は救われた後からの視点で書かれているとよく言われています。人は信仰によってのみ救われますが、救われた後には良い行いが伴ってきます。それは信仰の父と呼ばれたアブラハムの模範にも見出されます。信仰と行いは表裏一体のコインのようなものです。私たちは無理せず、背伸びをせずに自然体で神様から与えられた希望の光を輝かせる者になりたいと願います。皆さんはヤコブ書の中にどのような光を見出されますか?