私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の 役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているよう なときに、 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十 分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
―ヤコブ2:14~17-
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められ たではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたので あり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義 とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
―ヤコブ2:21~23-
行いの書と呼ばれるヤコブ書は真の信仰には必ず真実な行いが伴う事を繰り返し強調しています。聖書は行いによっては人は救われない事、信仰によってのみ救われる事も語っていますが、救われた人にはキリストの愛が宿り、必ず考え方や行動に変化がもたらされます。その事によって神の栄光があらわされるのです。神の友、信仰の父と呼ばれたアブラハムは神から試みを受けて、最愛のイサクをささげる試練に臨み、神からその真実な信仰を称讃されました。私たちもキリストの愛に動かされ、行いによって神の栄光をあらわすものになりたいですね。皆さんの考え方と行動の源はどこにありますか?