人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。                                                         ―マタイ6:1~6-
この箇所の教えは山上の説教の中で語られた教えです。イエス様は、神様と人との前での正しい行いは光ですから積極的に行うように語られました。しかし、どんなに良い行いであっても、それが人に見せるためのものになってしまうと、そこには逸脱が生じ、偽善が生じます。偽善とは仮面を被って演じる事を意味しています。これは当時の舞台俳優が仮面を被って演技をしていた事に由来しているそうです。この箇所は現代とかなり異なる背景があります。私たちはこの日本で、人前で祈る事にはかなり勇気が必要です。しかし、当時は祈る事は一般的であり、尊敬を集めるものでした。だから、当時の宗教指導者達はわざと人前で、人に聞かせるための良い言葉を選んで祈りをしたそうです。また、貧しい人々への施しや献金なども目立つところでしていたようです。イエス様は良い行い、善行は人に見せるために行うのではなく、むしろ自分を隠して、隠れたところで見ておられる神様を意識して行うように語っておられます。私たちの態度が真実であるなら、神様が報いて下さいます。私たちは良い行いは神様との秘密の関係の中で育むものでありたいと思います。今日の教えは私たちが神の前に生きているのか、人の前に生きているのかを問いかけています。私たちはどちらでしょうか?