すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、1イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」                                              -民数記14:6~9-
主は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。 しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」                                                      ―民数記14:20~25-
モーセの導きのもとで、出エジプトを果たし、約束の地カナンを目指すイスラエルの民は旅を続け、約束の地を見渡せるカデシュ・バルネアにたどり着きました。モーセは12人の斥候を派遣して、この地を探るように命じました。そこで彼らがみたものとは何だったのでしょうか?確かにその地は豊かで素晴らしい土地でした。しかし、そこ入るためには神様に従い、戦う事が必要でした。確かに敵は強大でしたが、神様は勝利を約束されていたのです。約束の地は目前でした。しかし、民は目に見える現実に心を奪われ、戦って勝利することは絶対にできないと嘆き訴え、ついには奴隷状態だったエジプトに帰りたいとまで言い出しました。カレブとヨシュアだけは信仰によって必ず勝利が与えられる事を語りましたが、他の民の心には届きませんでした。神様はこの事を悲しまれ、懲らしめとして、40年間荒野で放浪しなければならない事を告げられました。また、その40年の中でカレブとヨシュア以外の者は死に絶えて、次の世代の者が約束の地へ入る事を告げられました。祝福はすぐ目の前にあったのにもかかわらず、自らそれを逃してしまったイスラエルの民の姿は私たちに大切な事を語り続けています。カレブの信仰はその後も衰えず、85歳の時にカナンの地を踏みますが、その時もカレブはあえて、戦いが困難な山地、ヘブロンを相続地として求めました。そして、カレブが獲得した地はダビデの時代最初の都として重要な場所になっていくのです。この箇所では信仰によって前進しようとしたヨシュアとカレブの姿とあきらめて、嘆き悲しんだ他の民の姿が明確に対比されています。神様が与えようとされている祝福を逃すことはあまりにももったいない事です。私たちは正しい選択をする者になりたいと思います。皆さんもカレブのように、信仰によっていつまでも力強く歩まれたいとは思われませんか?