まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばれた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちがあなたをたずねています。」と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」                                  ―マルコ3:28~35-

イエス・キリストを信じる者は全ての罪が赦されます。この箇所でイエス様もどのような罪でも赦されると語っています。しかし、例外的に赦されない罪がある事も語っておられます。この箇所は赦されない罪を扱った珍しい箇所です。では、赦されない罪とは何でしょうか?ここではそれが聖霊を冒涜する罪であると教えています。では聖霊を冒涜する罪とは何でしょうか?当時イエス様は悪霊を追い出し、病を癒す奇跡を行っておられました。それはイエス様がメシヤ・救い主であることの証明でしたが、ある人々はそれを認めず、力の源を悪霊のかしらベルゼブルによるものであると非難しました。このように神の力を悪霊の力とすり替える事が聖霊を冒涜する罪であると教えられています。これは一見当時の特有の罪と考えられがちですが、見方を変えれば、イエス・キリストを意志的、継続的に拒み、否定し続けることを意味しています。これは永遠の損失に繋がるものです。その事をしっかりと認識し、心に刻みたいと思います。また、この箇所はもう一つ大切な教えを語っています。イエス様について、色々な憶測が飛び交う中で、家族は心配し、家に連れ戻そうとしたようです。意外な事に、イエス様の家族はイエスご自身について正しい理解ができていなかった事が伺えます。当時は家族の結びつきが今よりもはるかに強い時代でしたから、集まっていた人々の中には家族に従った方がいいのではないですか?と思った人もいたでしょう。その中でイエス様は真の家族、理解者とは血の繋がりを越えた結びつきである事を語っています。神を信じ、神のみこころを行う人こそが神の家族であると語られました。この教えもまた、当時の常識を覆す教えでした。真の絆と信頼関係は真の神様を信じる者どうしの中に生まれます。イエス様が私たちの真の友、家族となって下さると、自然と心を通わせる事ができる人々が私たちの周囲には不思議とあらわれていくものです。そして、そこに私たちは共に歩む幸いを見出していきたいと思います。イエス・キリストを信じるか否かは私たちに委ねられています。祝福となる選択をしたいですね。