私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。                                                       -哀歌3:21~24-
哀歌は文字通り、哀しみの歌です。著者は伝統的に涙の預言者と呼ばれたエレミヤだと言われています。エレミヤの生涯は文字通り、苦難と悲しみの連続でした。彼がどんなに一生懸命神様の言葉を伝えても人々は聞く耳を持たず、そして、悔い改めのチャンスも失い、エルサレムの破壊とバビロン捕囚は避けられないものになってしまいました。その絶望的な状況を目の当たりにしながらも、エレミヤはそれでも滅ぼし尽くされることはなく、生き延びる事ができた事に一筋の希望を見出しています。自業自得は言え、イスラエルの民は遠い異国の地、バビロンで70年間苦しみを味わう事になりましたが、時が満ちた時、神のあわれみによって解放され、故郷に帰り、町を再建することができました。未来の出来事を見る時に、私たちはこのことばが希望であることがわかります。注目すべきは『主こそ私の受ける分です。』と語られている事です。全てをなくしても、失っても、神様だけは私たちを決して見捨てないという憐れみ、神様ご自身こそが私たちの希望という幸いを見出したいと思います。この言葉ははもともと、イスラエル12部族の一つ、レビ族に与えられたものです。レビ族は代々神の礼拝所で仕える務めを担うが故に、土地の相続は与えられませんでした。この世的な意味では祝福を受ける事はできませんでしたが、他のどの部族よりも神様の側近くに仕える事ができる特権が与えられたのです。現代の私たちも、同じ幸いを見出す者になりたいと思います。ちょうどこの6月から、電気代の値上げ、物価の値上げが続き、不安定な状況の中で誰もが生きていく中で不安を感じているのではないでしょうか?生きていく事は決して楽な事ではありません。しかし、それでも生きていける事、いのちがある事、何よりも神様が共におられる事に私たちは希望を見出したいと思います。皆さんの希望はどこにありますか?