しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」                                ―ローマ10:14~15-
インターネットの普及は私たちの生活を劇的に便利にしました。誰もがスマートフォンを使って、膨大な情報を簡単に得ることができるようになりました。聖書について知ることも、門は大きく開かれています。考え方を変えるなら、教会に行かなくても、キリスト者から福音を聞かなくても、聖書について知ることができる時代です。では、伝える人は必要ないのでしょうか?そんな事は決してありません。聖書そのものが良いことを伝える人の存在が尊い事を教えています。伝道者ピリポはある時天使から、荒れ果てた地へ行くように言われ、出ていきました。そこでピリポは偶然エルサレムへ巡礼に来たエチオピアの高官と出会います。彼は巡礼を終えて、国へ帰る途中で、聖書を熱心に読んでいました。しかし、読んでいる箇所の意味がわからなかったのです。ピリポの解き明かしを受けて、彼は「これは誰のことなんだろう?」と疑問に思っていた事がわかりました。彼が熱心に読み、探求していた人は、イエス・キリストの事だったのです。彼はすぐにキリストを信じる信仰に導かれ、喜びにあふれて故郷に帰って行きました。神様は福音の言葉、良いことを伝える人を尊び、豊かに用いられるお方です。私たちを通して一人の人が救われて、永遠のいのちへと導かれるなら、その事に勝る幸いはありません。皆さんも神様のために用いられたいとは思われませんか?