群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」                                 ールカ12:13~15-

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 れを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」                           ―ルカ19:5~9-

聖書の中には何人か裕福な人、いわゆる金持ちの人が登場します。ルカ12:16~21の愚かな金持ちの例え話に登場する金持ちは神なき人生設計をした悪い典型的な例としてよく用いられます。16:19~31に登場するラザロと金持ちの例え話に登場する人も、この世の富に執着して、永遠の世界の備えができていませんでした。ルカ18:18~27に登場する富める青年は若くして成功した人でしたが、どこか満たされない毎日を送っていたようです。そこで、イエス様に永遠のいのちを得るにはどうすればいいでしょうか?と尋ねましたが、彼は自分の財産を貧しい人々に施し、隣人を愛する事ができずに立ち去りました。イエス様ご自身も、金持ちが救われる事は難しいと語っておられます。らくだが針の穴を通るよりも難しいとはなかなか強烈ですよね!そのように全体的に消極的な実例として用いられることが何かと多い金持ちたちの中で、数少ない祝福と救いの良い例がザアカイです。彼も裕福で何不自由のない生活を送っていましたが、彼は孤独そのものでした。イエス様がエリコの町にやってきた時、彼は会いにいきましたが、背が低く、イエス様を見ることができませんでした。そこで彼は恥も外聞もかなぐり捨てて、木の上に上りました。派手な着物の小さいおじさんが必死に木登りをする光景は滑稽だったことでしょう。また、周囲の人々も冷ややかな反応だったと思われます。ザアカイは生きながらに消えかかっているような存在でした。しかし、イエス様にはザアカイが見えていました。イエス様に呼ばれた時、ザアカイは息を吹き返したのです。息を吹き消したザアカイに迷いはありませんでした。彼はだまし取ったお金を4倍にして返し、一文無しになってもいい思いを表明し、実践しました。ザアカイが他の金持ちと異なっていた事は、お金以上に価値がある永遠のいのちを見出したところにありました。私達も生きている限り、物質的なものの魅力や誘惑にとらわれがちです。私達はザアカイのように、一番大切なものを見出しているでしょうか?