「このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。」「岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。」「いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。」「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」                                    ―ルカ8:11~15-
先週に引き続き、種まきのたとえについて学んでいきましょう。今週は種まき、伝道の実際について考えていきたいと思います。イエス様の宣教活動の時にも同じことが起こりましたが、ある人たちは神様の言葉を信じて、そこに留まり続けましたが、ある人たちは離れていきました。イエス様が十字架につけられる時に、「十字架につけろ!」と叫んだ群衆の中には、かつてイエス様の教えに耳を傾けていた人もいたかもしれません。人の心とはそのように変わりやすいものなのです。最初は神様を熱心に信じていても、試練や問題が原因で離れてしまう人もいます。また、他に関心事ができて、そっちに夢中になってしまって神様から離れてしまう人もいます。そのような現実を見ると、私達は時に心がくじてしまいそうになりますが、それでもその人がたとえひと時であっても神様と繋がり、魂の救いを得たのなら、それを心から喜ぶべきではないでしょうか?実際に一度信仰から離れても、逆に試練や問題を通して戻って来られる方もおられます。それを考えるなら、神様の言葉を蒔くことは決して無駄にはならないはずです。何があっても、何が起こっても、それでも種を蒔き続ける事が私達には大切なのです。そして、蒔き続ける事によって、私達は必ず神様から祝福されるのです。コロナ禍になり、教会は以前のように自由に伝道したり、集会を持つことは難しくなりましたが、インターネットを用いた礼拝を配信することで、逆に福音の門は開かれました。聖書に書かれているように、私達は時が良くても悪くても、みことばを伝える事が大切なのです。(Ⅱテモテ4:2)やはり最後に祝福されるのは神様のもとに留まった人なのです。それでも種を蒔くこと、それでも生きる事、これこそ、今の時代に私達が求められている事ではないでしょうか?今を生きる事、そして生きているだけでかけがえのない価値がある事を私達は神様にあって見出しているでしょうか?