今週のみことば 9月18日

そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。」 わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」   ―ヨハネ18:33~38-

ローマ総督、ポンテオ・ピラト。彼はイエス・キリストを十字架刑にする判決を下した人として知られています。その判決は歴史上、最低最悪の判決であったと言われています。聖書はその時の様子を詳しく描いています。絵画や映画の中で、ピラトは地位ある人として描かれています。それに対して、王の王であるイエス・キリストは傷付き、血を流し、王としては見る影もありません。このギャップも注目点です。ピラトは、イエスを十字架につけた事から悪役のイメージがありますが、聖書を読むと意外な事にピラトは公平な裁きを心がける人であり、イエスのうちに罪を見出すことができず、イエスを釈放しようとしていた事が伺えます。ピラト自身もイエスと直接対話をし、「真理とは何ですか?」と質問を投げかけています。しかし、ピラトはイエスと直接会って対話をしたのにもかかわらず、イエス自身についても、真理についても、判決についても明確な答えを出す事はできなかったのです。ピラトは怒りと殺意、ねたみに燃えた群衆たちの姿を見て恐れ、暴動になる事を恐れました。そして、自分自身の考えが曖昧なままに、流れにまかせて、十字架刑を執行したのです。イエス・キリストは歴史上最も不条理と理不尽に満ちた裁判で裁かれてしまったのです。ピラトは人間的、社会的にはローマ総督まで上り詰めた優れた人だったのですが、彼はイエス・キリストについて、明確な回答も、自分自身の考えも持つことができなかったのです。よく言われる話ですが、イエス・キリストについて、感想文を書きなさい。という課題が与えられたのですが、ピラトは何もノートに書かずに白紙で提出したのです。ピラトは明確な答えは出さず、曖昧にすることでその場を乗り切りました。彼は群衆の前で手を洗い、自分はこの件の責任は負わないというパフォーマンスを行いました。聖書はこの後ピラトがどうなったかについて沈黙していますが、伝承では彼は晩年精神に支障をきたし、罪がない人を有罪にした良心の呵責に苦しめられ、延々と手を洗い続けたと言われています。イエスとは誰なのか?真理とは何か?という人に投げかけられている一番大切な質問に彼は明確な答えを出さない白紙の人でした。ピラトはイエスの愛に背を向け、何の反応も示さなかった退屈な人として描かれています。そして、ピラトのこの反応がイエスを十字架につけたのです。ピラトは神を苦しめた人として今日も語り続けられているのです。罪の赦しと永遠のいのちについて、真理について、私達が無関心や無反応な態度を取ることは、神ご自身を苦しめ、悲しませる事なのです。私達はピラトの姿を反面教師として、心に刻む者でありたいと思います。私達はピラトのようになってはいないでしょうか?イエスが語り、示された、道と真理といのちに関心と希望はあるでしょうか?