あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。       

-伝道者7:16-

この伝道者の書を書いたのはイスラエルの王であり、地上で最も知恵を持ち、並外れて偉大な者となったソロモン王です。一般的に正義とか正しさは、良いものとして考えられているでしょう。しかし、聖書はこの箇所で正しすぎてはならないと語っています。なぜでしょうか?真の神様は、真実で正しく間違いのないお方です。しかし、私たちはそうではありません。自分の正しさを絶対化することはできないのです。人間関係に置き換えて考えてみましょう。対人関係でトラブルを起こすのはどのような人でしょうか?実は言葉は悪いのですが、いい加減で適当な人(私はその適当な人の代表です・・・)は、それほど争いをもたらさないのです。問題を起こすのは自分の正しさを主張し、相手の欠点を指摘し、修正しようとする完璧主義のが多いのではないでしょうか?聖書は自分のものさしで人をさばいてはいけないと教えています。天才的な物理学者として名高いアインシュタインは、このように言っています。『常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。』非常にユーモアがある言葉ですね!それでいて見事に本質を突いています。また、知識、知恵も時に私たちを思い上がらせて、高ぶらせるものにもなります。ですから、正しさと同じように自分を知恵のありすぎる者としてはならないと戒めているのです聖書は真の知恵とは、主を畏れることであると教えています。畏れるとは、恐怖に恐れおののくのではなく、神の完全な主権を認めることです。そして、真の知恵を持つ者は真の神のもとへ人を導き、罪の赦しといのちと希望をもたらすことができます。これが、私たちが追い求めることなのです。どんなに優れた知恵も、正しさも真の神様のもとを離れれば、人間的なものになり、逸脱してしまいます。それは大きな損失をもたらします。私たちは神の栄光をもたらす知恵を追い求める者になりたいと思います。私たちは自分自身の姿を心の鏡に映してみましょう。私たちの正しさと

知識は、神と人の前に祝福をもたらしているでしょうか?