今週のみことば その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には、薄く細かいもの地に降りた霜のような細かいものがあった。イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンだ。 主が命じられたことはこうだ。「自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。」そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。彼らが何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。      ―出エジプト16:14~18-

 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」                                                             ―ルカ12:15-

イスラエルの民は出エジプトの時、超自然的な神のみわざを見ました。しかし、それからわずか一か月後に、エジプトに帰っておなか一杯食べていたのが懐かしいと不平不満を言い出しました。人間の罪深さとわがままな姿がそのまま現されています。主なる神様は民の不平不満の声を聞き入れられ、天からぼパン、マナを毎朝与える事を約束されました。マナは、「これは何だろう」という意味の不思議な食物でした。クリームパンかクッキーのようなものだったのかもしれません。この天からのマナは恵みであると共に、民の信仰を試すものでもありました。毎朝集める分がその日の必要分で、次の日に残してはいけませんでした。なぜなら、必ず次の日に新しい分が与えられるからです。しかし、民のある者は残して次の日に持ち越そうとしました。すると虫がわいてしまいました。また、安息日の前の日には特別に二日分与えられることが約束されました。」それは、安息日にゆっくりと休み、神様に豊かな礼拝をささげるための配慮でした。その分は腐らなかったのです。しかし、民のある者は安息日の朝にマナを取りに行こうとしました。民が神の約束を信じる事ができなかったこと、また、必要以上に得て、ため込んでそこに安心を見出そうとした姿は人間のどん欲さそのものではないでしょうか?私たちを生かし、養って下さっているのは神様ご自身なのです。神様から日々与えられるものに感謝する事が大切です。私たちはそれを忘れてしまうとイスラエルの民のように自分の力で必死になって集めようとしてしまうのです。神が安息日の前に二日分のマナを与えられた事も、豊かな配慮でした。私たちに必要な事は神に信頼し、神の中に生きる事なのです。そうすれば、私たちは生きて働いておられる神の愛とと憐み、そして、配慮の豊かさを知る事ができるのです。私たちは日々与えられているものをどのように考え、とらえ、受け取っているでしょうか?その事を見つめなおしてみませんか?