今週のみことば さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」
そこは荒野である。そこで、ピリポは立って出かけた。すると、見よ。そこにエチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、分かりますか。」と言った。すると、その人は、「導いてくれる人がいなければ、どうしてわかりましょうか。」と答えた。そして馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
彼が読んでいた聖書の個所には、こうあった。「屠り場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない。彼は、卑しめられ、さばきは行われなかった。彼の時代のことを、だれが語れるだろう。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが預言者はだれについて、こう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖書個所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。                  ―使徒8:26~35-
教会学校でもおなじみのエピソードです。神の導きを受けて出かけた伝道者ピリポは、エルサレムに礼拝に来てエチオピアに帰る途中の宦官に出会います。ピリポは徒歩、宦官は馬車に乗っています。普通なら絶対に追いつくことはできませんが、神の超自然的な導きによって二人は出会いました。宦官は真理を求めてわざわざエルサレムにまで来て礼拝しましたが、求めていた真理が得られずに、悶々としながら旧約聖書のイザヤ書53章を読んでいました。苦難のしもべが誰なのか?それが彼の疑問でした。ある時、砂漠からひこばえのように、あらわれたしもべは、生命力に満ちていましたが、人々がみとれるような見栄えも輝きもありませんでした。(イエスは決してイケメンではなかったようですね)人々からはのけ者にされ、悲しみの人、病を知っているそのしもべは、極限まで傷つき、痛めつけられながらも一切反抗することはありませんでした。その姿は屠り場に引かれて、毛を刈る者の前で黙っている子羊のようでした。苦しみと悲しみの末にいのちを落としますが、よみがえりました。そして、全ての人を罪と死の呪いから解放する希望となりました。この苦難のしもべは、イエス・キリストの事です。宦官は強くその生涯に惹きつけられましたが、それが誰かわからず、自分との関わりがわからず、悶々としていたのです。ピリポの解き明かしによって、しもべが救い主と理解し、信じて救われた時の喜びは測り知れないものだったことでしょう。「導いてくれる人がいなければ、どうしてわかりましょうか。」これは、非常に本質を突いた言葉です。今日はインターネットも発展し、誰でも聖書の言葉に簡単に触れる事ができるようになりました。しかし、ここに出てくる宦官のように、強く惹かれながらも、真理がはっきりとわからない、見えないという状況は多いのではないかと思います。そのために神はキリスト者と教会を用いられるのではないでしょうか?福音を伝えるその使命と責任の尊さを改めて実感します。イエス・キリストとその生涯は私たちの心をとらえて離さない不思議と魅力に満ちています。そして、その方を信じる時に、私たちには罪の赦しと希望といのちが与えられます。皆さんもここに登場する宦官のように、イエス・キリストと出会いたいとは思われませんか?