R05年02月26日 日曜日 はれ 8℃
昨日、頂いたどら焼きですが
ちょっと豪華で、いちご生クリームどら焼き
1755年(宝暦5年)、に初代・槌谷園助が創業。「柏屋」(柏光章)の屋号で和菓子の販売を始めたが、京都の柏屋で修業したためではないかとされる[1]。槌谷家の家紋には柏の葉が3枚描かれている[1]。創業から一般売りではなく、大垣藩の御用達として生菓子を届けていた
1838年(天保9年)、4代目・右助が岐阜特産の堂上蜂屋柿を使用して柿羊羹を開発。当時の堂上蜂屋柿は高級品であり、柿1個が米1升と等価で納税できたほどだったため、明治時代に廃藩置県が行われるまでは大垣藩主・戸田家に納めるため完全受注制で和菓子を生産していた
廃藩置県によって戸田家が去ると大垣では紡績業が発展、つちやでは全国から集まった工員が帰省する際の手土産として洋菓子「おゝ垣」などを販売するようになった[1][3]。1896年(明治29年)、5代目・祐斎が親友の竹研究家・坪井伊助のアドバイスを受けて竹筒の容器を開発し、現在の形の原型に至った[1]。柿羊羹は1902年(明治35年)の第2回全国菓子品評会で柿羊羹一等賞を受賞した
1939年(昭和14年)には法人化を行った。太平洋戦争後には富有柿が柿の主流となり、堂上蜂屋柿の生産農家が激減したため、7代目は無償で苗を配るなどして維持に取り組んだ
創業家の槌谷家は昔から新しいものを好んだとされ、果物を羊羹にした「柿羊羹」をはじめとして時代に合った革新的な菓子を考案していた[3][4]。中でも9代目・槌谷祐哉が2015年(平成27年)の本和菓衆のイベントに向けて製作した「みずのいろ」は伝統的な干錦玉を薄く色鮮やかに作り上げた和菓子で、その見た目から「美しすぎる和菓子」としてSNSを中心に話題となり雑誌にも取り上げられた[5][6]。2017年(平成29年)には日本経済新聞電子版の「食べるアートだ ネオ和菓子10選」の3位に選ばれた