体罰問題 | 日本語教師の独り言

日本語教師の独り言

日々感じたこと、思ったこと、楽しかったことなどを綴っています。
クラシックのコンサートに、ときどき行くので、そのことも備忘録的に書きたいと思っています。



こんにちは!



昨日は、異種交流会じゃないけど、仕事で関係のある人と



新年会でした♪



え~、しっかり(がっつり)、二日酔いですガーン



奥さんは、大学のゼミの仲間との集まりでお出かけ中・・・



一人、のんびり土曜日の昼下がりを過ごしております。








さて、先日来、高校生が教員の体罰を苦に自殺した事件が



報道されています。



わたしは、いかなる体罰もあってはならないと思っています。



人は考える力があるから、感じる力があるから、人なんだし、



その力を育むのが教育(学校も家庭も)だと思います。



この手の報道で、わたしがスッキリしないのは、往々にして、



体罰を加えた教員を「悪者」として報じていることです。



大阪の市長は、その「悪」を叩き潰すことだけに必死ですが、





もう少し、問題の本質のようなものを「冷静に」考えないと、



解決できないだろうと思います。



体罰(暴力と言った方がいいかも知れませんが)を加えたことは、



決して許されませんが、この教員が悪いとは思いません。



何故、この教員が体罰を加えるに至ったか、その背景にあるもの



は何か。



突き詰めて考えていくと、おそらく、教育とは何か、学校とは何か、



という問題に行きつきます。



わたしは、教育というのは、先にも書きましたが、「考える力」



「感じる力」を育てることだと思います。



それは、学校だけでなく、家庭においても・・・



それが、出来ていない現実が多いのかな、と思っています。



体罰だけでなく、いじめの問題にしても、通じることがあると



確信しています。



「数学や理科なんて、社会に出て役に立たない!」



こういう声を良く聞きます。



それは、教育の中で、「考える力」「感じる力」を育てるという



土台に立って出来ていないからだろうと思うのです。



数学の証明問題とか、「嫌い!」って人も多くいました。



けれども、それが出来る出来ないという判断ではなくて、



「このように証明することで覆せない事実が出来上がる!」



ということを教えないといけないんです。



直感ではなく、論理的に物事を積み上げ、積み重ねていく



ということの大切さを、またその素晴らしさを・・・



答えを出す、正解を導くというのは、次のステップで、まず、



その本質を教えないから、「意味がない!」「面白くない!」



「苦手だし、嫌い!」という気持ちだけが残ってしまうんだろう



と思います。



数学で論理的に考える大切さ、素晴らしさを知ることは、また



正確で美しい文章を書く基礎ともなります。



そうやって、あらゆる学問、科目は、それぞれに関連があり、



相乗的に効果が期待できるものだと、わたしは思っています。









あるスポーツライターが言っていましたが、



学校という場は、「教育」を行う場であり、


そこに「クラブ(倶楽部)」があることがおかしい。


諸外国では、いわゆる「クラブチーム」は、


地域や専門的な機関に属しているのであって、


決して、学校でなど行っていない。



確かに的を得た発言だと、うなずかされました。



サッカーにしろ、野球にしろ、「クラブチーム」ですよ。



学校でやることじゃないと思います。



学校で行う役割が肥大化し、本来必要な役割が見失われ、



何かおかしくなってしまっているような気がします。



「学校とは何か?」



字のごとく、「学び舎」なんだろうと思います。



「何を学ぶか?」



それは、考える力や感じる力であり、その基礎をしっかりと



身に付け、社会に出て活躍しなければなりません。



そして、より高度な技術や知識を身につけるため、専門学校や



高等教育機関があって良いのだろうと思います。



学校や、教育、そういったものの本質を見つめ直し、考え直す、



まずそこから始めないと、学校や教育の場で発生している問題



は解決できないように思います。



二度と、悲しいことが起きないためにも・・・