先日気功師、コーチ仲間と会話をしていたら、部屋の話をした瞬間に引き摺り下ろされた「気」を感じました。
「何で部屋の話をした瞬間に落ちてるの?」と聞いてみました。
気功師的なアプローチでいえば、結界を張ることと答えるのかもしれませんが(もちろん、本人は結界のアプローチ、模様替えのアプローチはしていました。)、プレハブベースの部屋で4~5畳くらいで物理的に寒いというお話でしたので、単純に引っ越しの時期のようでした。
急激な成長をしている方でしたので、情報身体と部屋のミスマッチもあったのでしょう。本人は「部屋か!」とスコトーマが外れていました(^^)
実業家の堀江貴文さんと評論家の佐藤優さんは刑務所の中の6畳の部屋の中でもパラダイスとおっしゃっていましたが、部屋で落ちるならば、我々は自我を変える面での物理的な引っ越しも重要に思います。(特別音声ファイルのおまけ参照。)
「刑務所の中でないのにどうしてみんなそんなに不自由そうなの?」というジョークもありますが、でも、出所後堀江さんは六本木のリッツカールトン東京で良く見かけました。堀江さんが横の席にいたということも3回くらいありました。苫米地先生は1度だけ見かけました。
いくら騒音をダイヤモンドの鉱石採掘音に共感覚で変えることができるとしても、この例を見ても、おそらく、物理的な場は重要なのです。ゴルゴダの丘に実際に行かないとイエスの黄色の気が見えないようなものです。
「経典を燃やさせる」という脱洗脳の古典的な手法が効果があるのはこういうカラクリもあるからです。「なかだ」の場ではスピリチュアルに対しては寛容でありつつも批判的な態度を取っています。
簡単にいえば、スピリチュアルはあの世の論理だけなのがまずいのです。現実を観なくなる、1人1宇宙であり、2人以上が共有することで物理空間と定義された空間を蔑ろにするのです。
我々の先輩気功師である釈迦はあの世のことについては無記という形で答えました。寝言は寝てから言ってねということでした。毒矢の喩えというものがあります。
ある時、人が毒矢に射られたとする。
ところが、もしもその人が、かけつけてくれた医者に対して、
「この矢を射たのは一体だれであるのか。
弓はどのようなものであるのか。
弦(つる)は何でできているのか。
矢羽は、どんな鳥の羽であるのかが分からないうちは矢を抜くな」
と言ったなら、その人は、それが分かる前に死んでしまうであろう。
必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである』
伝えたいことはシンプルです。
必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることであるを「なかだ」の場風に書き換えるならば、
今この瞬間になすべきことを(^^)ではないでしょうか。
