児玉神社の「日本帝國褒章之記」とは? | 周南市 東郭の世界

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周南市の児玉神社にある「日本帝國褒章之記」とは、どういうものか石碑の碑文から伺い知ることを

発信しようと思います。

周南市の生涯学習課HPにある児玉神社や石碑について

“児玉神社は、大正12(1923)年に地元有志の発起により、児玉源太郎を祭神として創建されました。社殿は、神奈川県江ノ島に建設されていた神殿と附属建物を移し、旧邸址である現在地に建立したものです。
境内には「徳山七士碑」、後藤新平の筆による「徳足以懐遠」、児玉源太郎薨去の際の「御沙汰書」、後藤新平の「児玉神社参拝記念碑」、「日本帝国褒章之記」、歌碑「山縣元帥の児玉大将の死を惜しまれたる歌」など児玉源太郎ゆかりの記念碑が多数建立されています。” とあります「日本帝国褒章之記」です。

児玉源太郎を語る時、幼少の時、児玉家に起きた悲劇なしには語れません。

徳山藩の中級藩士(家禄百石)であった父半九郎は、黒船来航以来尊王攘夷論を唱えていたそうですが、対立派にうとまれ閉門蟄居の身となり憂悶にうちに死んでしまいます。このとき源太郎は5才で幼かったため、半九郎の養子となっていた次郎彦と姉久子を娶わせて、児玉家を継ぐことになったのです。

ところが、この義兄次郎彦が対幕恭順派に暗殺されてしまい、家屋没収、家名断絶となってしまいました。

「児玉家には13歳の源太郎、母・元子、姉の久子と信子、次郎彦と久子の間の子・文太郎が残され、生活は困窮した。しかし、源太郎の母は家名を辱めないように努めつつ、源太郎らの教育を怠らず、事あるごとに『曾我物語』を読み聞かせた。やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)に藩主・毛利元蕃から家名再興を許され、源太郎は中小姓として25石の禄を与えられた。また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻役、禄100石へ戻されている。」とWikiにあります。

その後、久子は子弟の教育と仏道に帰依して報謝の生活を送り、昭和3年(1928年)には八十六節婦として緑綬褒章を受章。これを記念して「兒玉久子褒章記念碑」が周南市の児玉神社内に建てられたという

わけです。

つまりは、明治維新の徳山藩も藩論が俗に俗論派と正義派に分かれて対立し、徳山七士の正義派犠牲者を出しました。次郎彦もその中の一人であり、暗殺されて家名断絶となりましたが、残された家族が

困窮の中にも源太郎を立派に育て、明治一級の人物にしました。 母の元子もそうですが、此処では

姉の久子が緑綬褒章を賜ったことを記しています。

 

                                              《2020.6.24 周南市 東郭》

 

 

 

日本帝国褒賞ノ記

 

     日本帝國褒章之記

     山口縣華族 兒玉ヒサ

  資性恭順夫ニ仕ヘテ勤王ノ誠志ヲ致サシメ夫 

  歿スルヤ困難ナル家計ヲ支持シ刻苦奮勵弟妹

  ノ教養ニ努メ遂ニ家道ノ興隆ヲ見ルニ至ラシ

  メ又克ク老母ニ孝養ヲ盡シタル等志操ヲ渝へ

  サルコト六十有餘年ノ久シキ終始一日ノ如シ

  洵ニ奇特トス依テ明治十四年十二月七日

  勅定ノ緑綬褒章ヲ賜ヒ其善行ヲ表彰セラル

     昭和三年六月二十二日

 

 

 

 

 

児玉源太郎

 

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児玉源太郎を育てた姉児玉久子とは?

 

兒玉 久子(こだま ひさこ、天保13年(1842年) - 昭和12年(1937年))は、幕末から昭和にかけての人物。父は長州藩の支藩・徳山藩の中級武士(100石)である児玉半九郎。夫は徳山七士の一人である児玉次郎彦。弟に明治時代の軍人・児玉源太郎、妹に児玉信子がいる。

 

生涯

天保13年(1842年)、徳山藩士・児玉半九郎の長女として周防国都濃郡徳山の横本町で生まれる。

安政3年(1856年)10月19日に父・半九郎が死去。久子の弟で児玉家嫡男の源太郎はまだ5歳と幼かったため、母・元子は半九郎の友人の漢学者であった島田蕃根と相談し、同じく徳山藩士である浅見栄三郎の次男で、弘化2年(1845年)に半九郎の養子となっていた次郎彦を久子と娶せ、次郎彦が婿養子として児玉家の家督を相続することとなった。

しかし、元治元年(1864年)8月12日に夫・次郎彦が佐幕派によって暗殺され、児玉家は家禄と宅地を没収され家名は断絶となった。児玉家には久子、母・元子、妹の信子、弟の源太郎、そして次郎彦と久子の間の子・文太郎が残され、遠縁を頼って雨露をしのぎ、母や妹と共に裁縫や機織り等の賃仕事を始めたが、生活は困窮した。しかし、母・元子は家名を辱めないように努めつつ、久子や源太郎らの教育を怠らず、事あるごとに『曾我物語』を読み聞かせた。やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)6月29日に藩主・毛利元蕃から児玉次郎彦に対する赦免状が交付された。これに対し、児玉家の親類一同は7月3日に源太郎の家督相続を願い出て許可され、源太郎は中小姓に取り立てられて25石の禄を与えられた。これにより児玉家の家名は再興された。また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻り役に任じられ、禄も100石へ戻されている。

その後、久子は子弟の教育と仏道に帰依して報謝の生活を送り、昭和3年(1928年)には八十六節婦として緑綬褒章を受章。これを記念して「兒玉久子褒章記念碑」が周南市の児玉神社内に建てられた。

昭和12年(1937年)に死去。享年95。墓所は山口県周南市の興元寺の墓地である通称・隠居山墓地の一角の児玉家墓所にある。《出典:Wikipedia》

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児玉神社(周南市)

 

 

 

 

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