【神社仏閣】大寧寺(山口県長門市) | 周南市 東郭の世界

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大寧寺は、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられた政変(1951年9月)のお寺であります。

大内氏は百済の聖王(聖明王)の第3王子である琳聖太子の後裔と称して、琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期の大内義隆の代には山陽・山陰と北九州の6か国を実効支配した名家です。大内義隆は第16代の当主であり、実質的には公家文化ばかりに傾倒し、政治の方は疎かになっていたそうですが、それを不満に思っていた重臣の陶隆房(晴賢)が謀反を起こし

大寧寺まで追って自害させられました。陶晴賢は、周防富田の若山城が本拠地であります。

弘治元年(1555年)9月陶晴賢は毛利元就と合戦となり厳島へ渡海して毛利方の宮尾城を攻撃した。しかし、毛利元就の軍勢に背後から急襲され壊滅、晴賢は青海苔浦へ逃げて島からの脱出を目指したが船がなく、髙安ヶ原で自刃したとされる。その後、桜尾城で首実検が行われ洞雲寺(廿日市市)に葬られた。陶氏一族の菩提寺は、周南市長穂の龍文寺にあります。

その後、周防の國を支配した毛利氏は、大寧寺も龍文寺も庇護しています。

 

                                               《2020.5.19 周南市 東郭》

 

 

大内義隆公終焉の地

 

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大寧寺は、山口県長門市深川湯本にある曹洞宗の寺院である。山号は瑞雲山。

正式名は瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺と称する。現在の住職は前山口県立大学学長の岩田啓靖。

 

歴史

応永17年(1410年)に大内氏一族で長門国深川城主の鷲頭弘忠が、能登国總持寺の禅僧石屋真梁を招聘し、城内に大寧寺の前身となる康福寺を創建したと伝える。康福寺は人里に近すぎたため、石屋禅師の高弟智翁永宗が来住した際に協力を仰ぎ、現在の位置に移転して山号を大寧寺に改めた。以降、大寧寺は總持寺の直末寺として高い寺格を維持した。

なお、開基を周防・長門の守護大名大内教弘、開山を智翁永宗とする説もある。ただし、大内教弘は1420年の生まれで、年代的に合わない。

文安5年(1448年)に大内教弘によって鷲頭氏が滅ぼされた後も、大寧寺は大内氏の香華院として庇護された。 政争に疲れて流浪の旅に出ていた元関東管領上杉憲実がこの寺で晩年を過ごし、文正元年(1466年)に病死している。

長享3年(1489年)出羽国寒河江氏13代知広が大寧寺に寺領を寄進し子院として澄江院を建立した。二親供養のためであったという。当時父の叔父にあたる全岩東純が大寧寺七世住職であった縁により行ったものである。

 

天文20年(1551年)に大内義隆が家臣の陶隆房の謀反に遭い、山口から脱出後にこの寺に逃れたが、陶軍に包囲される。異雪慶殊(いせつけいじゅ)より戒名を授かった義隆は自刃し、寺も焼失した(大寧寺の変)。その後、毛利氏の庇護を受けて再建された。《出典:Wikipedia》

 

 

 

大寧寺略

 

 

 

 

 

 

 

 

大寧寺略

 

 

 

 

 

 

 

 

大寧寺境内説明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盤石橋

 

 

 

 

 

 

 

 

盤石橋

 

 

 

 

 

 

 

 

盤石橋

 

 

 

 

 

 

 

大寧寺全図

 

 

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