絵でたどる吉田松陰の生涯の2回目です。
前回は、松陰先生の生誕から実父杉百合之助うや叔父玉木文之進の指導を受けます。叔父の
吉田大助の養子になりますが、山鹿流師範の家柄でした。9歳で明倫館兵学師範に就任、11
歳のとき藩主毛利敬親公に御前講義を行い、その結果が非常に評判を呼び藩主初め藩からも
安政2年(1855年)先生は、漸く出獄し生家(実父杉百合之助)に蟄居(幽囚室)になり、
安政3年3月から講義(松下村塾)を始めます。安政5年12月26日、再び野山獄に投じられま
す。容疑は、梅田雲浜との面会と見られていますが、世は安政の大獄の真っ只中であり、
直接、伏見要駕策には関与してないものゝ、江戸送りとなって取り調べを受けることになり
ます。ですから、松下村塾で松陰先生が講義した期間は、2年9ヶ月だったのです。
《2019.8.25 周南市 東郭》

松陰先生遊学出立の像

絵図の解説

7.脱藩して東北へ 嘉永4年(1851年)12月14日東北遊学へ出発するが、
宮部鼎蔵・江幡五郎との約束期日を守る為、過書手形の発行が下りぬまゝ
脱藩して出発したのである。

8.下田で密航計画 安政元年(1854年)3月27日、先生は金子重輔と共に
小舟で米国艦隊に近づき、乗船して外国事情を学びたいと懇願するが、
米艦隊は、幕府との交渉の事(日米和親条約)があり断られる。
松陰先生は、密航の失敗で幕府に自首しますが、長州藩にて蟄居となります。

9.獄中で読書 長州藩は、先生を野山獄へ投じます。獄中では囚人たちと
勉強会を開き、また、一年間で600冊以上の本を読んだ。

10.松下村塾で指導 藩校明倫館に入れない軽輩や庶民の子弟が90人先生の
指導を受けましたが、その間2年9ヶ月でした。
私塾であり、学費も取りませんでした。しかし、庶民子弟の勉強熱という
ものは、大変なものであったと思われます。この熱意が長州藩明治維新の
胎動となって行くことが、松陰先生の願いでもありました。

11.江戸へ帰らぬ旅 29歳、安政6年(1859年)5月25日萩を出発し、
6月24日江戸に到着しました。先生と雖も幕府にとっては、重要な容疑者で
あり、護送役人ら総勢20名だったそうです。無論、この絵のような町屋駕籠
ではなく、厳重な唐丸駕籠でした。萩往還道路も城下町は見える最後の場所
で、先生は次の詩を詠まれました。
” かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな”
