
”ゆうぜんとしてほろ酔えば雑草そよぐ” 山頭火
”うしろすがたのしぐれてゆくか” 山頭火
”分け入っても分け入っても青い山” 山頭火
種田山頭火は山口県防府市で大地主の長男として生まれました。10歳の時、父親の芸者遊びを
苦にして母親が投身自殺をしました。彼は、周陽学舎(現防府高校)へ入学したころから俳句
を始めたようですが、そこを首席で卒業後、山口高等学校から早稲田大学に入学しています。
しかし、母の投身自殺の影響から神経衰弱を抱えていたようです。この為、郷里に帰りました
が文芸活動は続けていました。しかし、実家は父が始めた酒造場も大正5年には破産し、熊本へ
移り住みます。一方「層雲」では頭角を表し俳句選者になっています。熊本から東京へ出てい
ますが関東大震災で再び熊本へ戻っています。大正15年漂泊の詩人と呼ばれる雲水姿で行乞を
始めたようです。妻とも離婚したり、弟も自殺して彼は、持病の神経衰弱は酷くなり薬と
お酒で人生の空しさを紛らわそうとしました。彼の漂泊は、途切れることもありましたが、
句作は続けており、その行乞は昭和15年松山「一草庵」没まで続きました。その境遇の中で
生み出された ”魂の叫び” は、誰にも共感を覚えさせると思います。
”分け入っても分け入っても青い山” は、高千穂の国見ヶ丘に行った時、案内の運転手さんが、
私達が山口県から来たと聞き、山頭火がこの山へ来たときに詠んだ句と紹介してくれました。
山頭火は、大正4年4月2月肥後の味取観音堂守となったが、4月行乞流転の旅に出たそうで
高千穂の山へ分け入ったときの情景を詠んだものだろうと思い、”なるほど!” となんとなく
理解したような気になった想い出があります。《2019.5.11 周南市 東郭》

種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。山口県生まれ。「層雲」の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一(たねだ しょういち)。
概要
自由律俳句の代表として、同じ「層雲」の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
なお、「山頭火」とは納音の一つであるが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。また、「山頭」の定義には「火葬場」も含まれている。このことから、「山頭火=火葬場の火」と解釈できるという説もある。山頭火がこの意味を意識して名前を選んだ可能性について、山頭火の母親の死との関連性が指摘されている。
30歳の頃には、ツルゲーネフにかなり傾倒し、山頭火のペンネームでいくつかの翻訳をこなしている。金子兜太によれば、山頭火の父竹治郎はツルゲーネフの父、セルゲイ・ツルゲーネフに似ており、騎士大佐で美男子で体格がよく、意志薄弱で好色に利が利いた上、結婚も財産目当てであった。竹治郎はセルゲイよりもお人好しではあったが、目の大きい寛容な人物であったという。美男子で女癖が悪く、妾を幾人も囲い、政党との関係に巻き込まれてからは金使いも荒くなった。冷ややかで好色、意志薄弱という特徴を備えていた。
山頭火は晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。その時にはすでに無一文の乞食であったが、乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けている。その放浪日記は1930年(昭和5年)以降が存在し、それ以前の分は自ら焼却している。死後、遺稿日記が公開され、生涯の一部が明らかになった。《出典:Wikipedia》