山口県周南市の太華山(標高362m)は、風光明媚な処で、1800年には四熊ヶ岳・金峰山・
大島太華山の三方から徳山藩を守護する意味から観音様や不動尊が建てられたそうです。
もっとも、それ以前から地元のお山信仰はあったようですが、大島不動尊(太華山)は、
徳山藩7代藩主毛利就馴が建立しました。
徳山を守るということでは、太平洋戦争中には太華山に高射砲陣地が築かれました。
北の方は、金峰山近くの大道理の大高神山にも高射砲陣地があったようです。
あと、周南西緑地の東山防空砲台がありました。米軍のB29爆撃機は、高度10,000mで
攻撃して来るのに高射砲の有効射高は7,000mであったと言われます。
徳山大空襲は、昭和20年の5月10日と7月26日の2回に渡り、死者併せて1.000人余になりま
した。徳山の市民を守り切れなかったのは、仕方ないにしても令和になった現在、果たして
自然災害などへの対応が十分なのかというと、まだまだであります。あの時代とは変わって
未曽有のゲリラ豪雨は、どこでも起こり得る可能性があります。昨年の西日本豪雨の被害は
周南市でも甚大なものでした。いま、周南市(徳山)を守るのは、”災害に強いまちづくり”
への取り組みです。近頃、獺祭で有名な旭酒造の処を通りましたら、甚大な山崩れの爪痕
が迫っていて、その大きさにビックリしました。山が200m~300mの長さで幅40~50m
で地肌が丸見えであり、大きな石がゴロゴロ転がっています。
下から爪痕を見ると、頭の上から土石流が降って来るような恐怖を覚えます。
一体、何百m3の土砂が川を埋め橋や家を流したのか?想像を絶する惨状でした。
勿論、今は道路は土嚢で安全に通れますし、災害復興も進んではいますが、同じように
また、雨が降ったとしたらと思うと気が気ではありません。ハード面だけでなく、最初の
避難勧告や指示などソフト面でも迅速的確に機能するように体制作りを構築しなければ
なりません。勿論、定期的に避難訓練なども必要です。
周南市を災害から守るつよい町を作って欲しいものであります。
《2019.5.5 周南市 東郭》

鉄幹歌碑

鉄幹歌碑
”彼のあたり二十の前の我を知る
蛇島 仙島 黒髪の島” 与謝野鉄幹

鉄幹歌碑 由緒

瀬戸内海国立公園 太華山

手前小島が蛇島、中央左が黒髪島、右細長いのが仙島

山頂広場の大島不動尊

山頂広場の大島不動尊

大島不動尊は徳山藩を守護すると伝えられる。

大島不動尊
周防徳山藩3代藩主毛利元次は剛毅にして果敢、文武両道に秀でていたが、気性の激しい人物であった。また、明敏で好学の聞こえが高く、文化人として優れており、将軍・徳川綱吉の教書講釈にもしばしば列席し、その詩文は上皇の上覧に入れたことがあると伝えられている。また、著作に「遠石記」、「徳山名勝」、「徳山雑吟」など多数あり、「棲息堂」という学問所も創設している。また、信仰心にも篤く、朝夕に座して太華山頂の不動尊を遥拝していた。遥拝の際に座った石が、現在も徳山動物園内に「遥拝石」として残されている。 《出典:Wikipedia》
大島不動尊の説明板には、7代藩主毛利 就馴(もうり なりよし)が建立したと書かれてあり
ますが、それ以前にも不動尊はあったようです。太平洋戦争中は、山頂に高射砲砲台が
築かれ、徳山の町を守る為でしたが、実際には殆ど役に立たなかったらしいです。
第三海軍燃料廠空襲
昭和20年 5月10日
午前10時過ぎ、豊後水道上空から約800機に及ぶB29の編隊が侵入し、第三海軍燃料廠・大浦油槽所・徳山鉄板工場などを一時間にわたり爆撃した。このため燃料廠の全機能は破壊され、死者500数十人、重軽傷者1,000人に及んだといわれる。
昭和20年 7月26日
昭和20年 7月26日午後11時過ぎ、三機編隊のB29 約100機が侵入して波状攻撃を加え、多数の焼夷弾と小型爆弾を投下した。市街はたちまち火の海と化し、逃げ惑う市民には機銃掃射が加えられた。
一夜にして市街地の約90%が焼け野原と化し、罹災面積100万坪、死者482人に及んだ。また、市役所に急行して陣頭指揮を執った羽仁市長は壮絶な空爆死を遂げた。

こちらも不動様?