
【碑文】
しぐるるや石を刻んで仏となす 山頭火
【解説】
種田山頭火は、山口県防府市出身の自由律俳句の俳人ですね。彼は、大地主の息子で学業
も良く出来たようですが、小学校の時 母親が夫の芸者遊びを苦にして自殺しました。
このことが、精神的にも大きな打撃となって彼も ”性情が憂鬱とならざるを得ない” と
言っていますし、流浪の詩人を生す要因もあったのではないでしょうか?
彼は周陽学舎を首席で卒業し、尋常中学4年編入・防府高等学校・早稲田大学へと進学しま
す。俳句活動は29歳ごろから発表しているようで、そのころ山頭火と号したそうです。
34歳の時には「層雲」の俳句選者になっているころから頭角を現したようですが、彼の
実家の倒産などもあり、家庭的にもうまくいかず、性情は、益々虚無的になり、不安定な
状態になったようです。彼は、43歳のとき雲水姿で放浪の旅を続けながら「層雲」に投稿
していました。
碑文の「しぐるるや石を刻んで仏となす」は、昭和4年12月の大分県の臼杵を巡っている時
の作です。臼杵の石は、阿蘇溶結凝灰岩といって比較的柔らかいので、山頭火も仏様を
刻んだのだろうと思います。ところで、”しぐるるや” で始まる彼の句は、こればかりで
なく、「しぐるゝや人のなさけに涙ぐむ」・「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」・
「しぐるるや死なないでゐる」・「しぐるるや道はひとすじ」があります。何れにしても
彼が言っている性情に寄り添って読んでみれば、私などにもその句を理解する手立てに
なるのではないかと思ったりします。彼の一生から、どうしようもない環境の憂鬱を
酒と俳句にのみ発散させたわけで、その心情は人間の本音という切羽詰まったものだけに
人々の共感を呼ぶのではないでしょうか?
東郭ブログの二段目に私の心情的に好きな “ゆうぜんしてほろ酔へば雑草そよぐ ” を
以前から載せています、いつ頃の作か調べてみましたが、力不足で判りませんでした。
しかし、雑草そよぐは、流浪の旅をしている場面ですし、ほろ酔いは、お酒を呑む時でも
一番気分の良い段階です。病弱で不幸の一生でしたが、悠然の意味は、”落ち着いていて、
少しもあわてないさま。心がゆったりとしているさま。” とあります。彼にもこんな時期
や心情の時があったとおもうと、幾分、慰められます。
【山頭火とは?】
種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。山口県生まれ。「層雲」の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一(たねだ しょういち)。
概要
自由律俳句の代表として、同じ「層雲」の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
なお、「山頭火」とは納音の一つであるが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。
30歳の頃には、ツルゲーネフにかなり傾倒し、山頭火のペンネームでいくつかの翻訳をこなしている。金子兜太によれば、山頭火の父竹治郎はツルゲーネフの父、セルゲイ・ツルゲーネフに似ており、騎士大佐で美男子で体格がよく、意志薄弱で好色に利が利いた上、結婚も財産目当てであった。竹治郎はセルゲイよりもお人好しではあったが、目の大きい寛容な人物であったという。美男子で女癖が悪く、妾を幾人も囲い、政党との関係に巻き込まれてからは金使いも荒くなった。冷ややかで好色、意志薄弱という特徴を備えていた。
山頭火は晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。その時にはすでに無一文の乞食であったが、乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けている。その放浪日記は1930年(昭和5年)以降が存在し、それ以前の分は自ら焼却している。死後、遺稿日記が公開され、生涯の一部が明らかになった。《出典:Wikipedia》