初秋の徳佐八幡宮(山口市阿東徳佐) | 周南市 東郭の世界

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徳佐八幡宮は、山口市阿東徳佐中に在ります。

今年(2018年)春も枝垂れ桜を観に行きましたが、参道370mに枝垂れ桜140本植えられ、

また、その両側にもソメイヨシノ120本が咲いている境内は西日本随一と云われています。

その桜の季節も過ぎ、もう、今は稲刈りの真っ最中であり、徳佐八幡宮は、秋の例祭までは

閑散としています。

しかし、八幡宮境内は葉桜の中、自由に散策も出来て、賑わいの春とは違った趣があります。

                             《2018.9.6 周南市 東郭》


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徳佐八幡宮拝殿

徳佐八幡宮 (宝清山八幡宮)
祭神
・八幡神、応神天皇、神宮皇后、姫大神ほか       
・大国主命(おおくにぬし)、大己貴命(おおなむち)、少彦名命(すくなひこな)ほか
御神徳
・護国・護卿・五穀豊穣の神
・強運を呼び、家族、夫婦、親子の関係を強める神
・厄除け・災害よけ、安全の神、縁結びの神、商売繁盛の神
・医療・病気平癒の神、授児・安産の神






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扁額「宝清山」と毛利家家紋「一文字三星」







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徳佐八幡宮拝殿

由緒
大内満盛公が、宇佐八幡宮から平安時代末の寿永元年(1182)八月十七日勧請(かんじょう)しました。
過去2回の火災を経ましたが、ご神体は焼失を免れ、今の社殿は天明八年(1788)に藩主
毛利綱広公のカにより再建・改築され、3体の神輿も奉納されました。
以来、一に三ツ星の毛利紋が社紋となりました。

毛利歴代藩主の崇敬が厚い神社で、戦前は阿武郡で唯一の県社でした。
大内氏や平家落人の影響を受けて、徳佐八幡宮の祭礼では平安時代の宮廷雅楽である還城楽(げんじょうらく)、万歳楽、千秋楽や田楽等が演じられ、江戸時代未まで続いていました。 境内には荒神杜、稲荷社、女性に信仰の厚い淡島社があります。



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枝垂れ桜の参道







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徳佐八幡宮の「しだれ桜」
参道のしだれ桜は、文政八年(1825)に浪速から取り寄せたもので、古くから親しまれている日本古代種の彼岸系の「しだれ桜」です。

現在、参道370メートルには140本の桜が垂れ下がり、可憐な一重の花を咲かせます。夏には緑のトンネルが参道に豊かな木陰を作ります。

また、参道脇の境内公園には120本のソメイヨシノ、大島桜、少し遅れてカンザン、ウコン、ギョイコウ(緑の桜)などが花を競います。しだれ桜は一時は文部省指定天然記念物にもなっていました。現在は町教育委員会文化財に指定されています。





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鬼瓦の一文字三星

由緒沿革

 
 鎌倉時代の寛元二年(1244)につくられた「徳佐八幡宮草創之事」(古文書)には、次のように書かれている。即ち、百済国聖明王第三子琳聖大子の第十四代の孫にあたると云われる大内満盛公が、平安時代末期の寿永元年(1182) に、豊前国宇佐八幡宮から分霊を勧請し、徳佐郷丸山に奉祀した。当時の当郷の守護久守隼人佐源光盛家(現宮司渡辺家の先祖・久守・諏訪・渡辺と改姓)は、その後代々神明に奉仕して今日に至っている。

 社伝によると、室町時代から江戸時代にかけて、社殿が火災により焼失したことがある。また社地は丸山から小南・古宮山へ遷座したが、延宝七年(1679)にまたもや古宮山の社殿が全焼したので、天明八年(1788)に現在地である荒神山に遷座した。
 

現社殿は、藩主毛利綱広公の造営になるもので、延宝九年(1681)には新神輿三体を萩で造らせて奉納され、現在においても同輿を使用している。
 当社は鎌倉期より大内氏、続いて毛利氏の加護を厚く受け、戦国期には渡辺家の戦功に対し、毛利元就公より大宮司職と馬具を贈られている。
 

明治六年(1873)に村社に列し、同十四年(1881)には郷社に昇格、大正九年(1920)にはさらに県社に昇格する。
 

昭和九年(1934)には徳佐桜が文部省より名勝天然記念物の指定を受ける。し
かし、昭和三十一年(1956)、老朽のため指定を解除される。現在は阿東町教育委員会より町文化財の指定を受けている。《出典:山口縣神社誌》






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徳佐八幡宮本殿