周南の独眼竜 白井小助(第二奇兵隊総督) | 周南市 東郭の世界

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周南の独眼竜とよばれた 白井小助の展示会が、平生町歴史民俗資料館(山口県熊毛郡平生町

大字平生町193-4)で開催されています。8月30日に拝観させて戴きまして、感銘を受けまし

たので、その報告を致します。

                            《2018.9.2 周南市 東郭》


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白井小助


白井 小助(しらい こすけ、文政9724日(1826827日)明治35年(1902年)6

18日)は、幕末の志士。萩藩寄組浦靱負の臣。浦氏家臣。元奇兵隊軍監。諱は素行、号は

飯山。白井小輔、白井小介とも。明治33年(1900年)従五位。《出典:Wikipedia》



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生涯
文政9年(1826年)、儒学者白井弥蔵の長男として誕生。嘉永年間に江戸へ遊学。佐久間象山から砲術、斎藤弥九郎から剣術、安積艮斎から文学を学ぶ。吉田松陰と親交があり、松陰が伝馬町牢屋敷へ入獄されたときは金銭を差し入れるなど世話を焼いていたことで知られる。

文久2年(1862年)、高杉晋作、久坂玄瑞らと英国公使館焼き討ち事件を起こす。

文久3年(1863年)に奇兵隊へ入り、文久4年(1864年)外国鑑との戦いの中、雷管破裂
事故で右眼を失明する。慶応元年(1865)、真武隊参謀を経て第二奇兵隊総管へ。

慶応2年(1866年)、第二次長州征討では大島口の戦いへ参加。戊辰戦争時には参謀として北越戦争へ従事。その後凱旋して奇兵隊軍監となる。

明治維新後は、周防国熊毛郡佐木へ隠居し、飯山塾を開く。
明治35年(1902年)没。
《出典:Wikipedia》






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明治維新の志士 白井小助







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吉田松陰先生が伝馬町の牢獄に捕らえられた居た時、白井小助は家宝の名刀備前長船祐定を

売って金を工面し、牢獄に差し入れたそうです。老番や牢名主に便宜を図ってもらう為であり

虐待されない為でもありました。主に高杉晋作が松蔭先生と面会していたようですが、相当な

額にのぼったようです。その時の牢名主の沼崎吉五郎は、松蔭先生の理解者となって、頼まれ

た留魂録を維新後野村靖に渡します。江戸末期の一両は、現在の貨幣価値で3万円~5万円と

なりますが、15両は、約50万円~75万円くらいかと思います。何れにしても、白井小助は

4歳年下の松蔭先生を心から敬愛していたに、違いありません。また、松蔭先生亡き後の文久

3年1月5日、高杉晋作と共に遺骸を小塚原から掘り出し世田谷の現松蔭神社へ改葬しまし

た。このときは他に伊藤俊輔・堀真五郎・赤禰武人・山尾庸三が居たと伝えられています。

また、文久21212日の英国公使館焼き討ち事件の時も高杉晋作・久坂玄瑞ら10余人の

中に白井小助の名前が出て来ます。



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白井小助は、第二奇兵隊の創設に尽力し、四境の役大島口戦で総督として活躍、また戊辰戦

争では討幕軍参謀として活躍しました。しかし、明治維新になって奇兵隊の役割は終わり

ます。余剰人となった隊士は、僅かな手当てで元の人になってしまいます。夢と希望を持っ

て参戦した農民や僧侶・一般人は、それを覆され脱走・反乱に走りました。

これは、長州ばかりでなく不平士族の反乱として各地で勃発しました。

兵部省に居た白井小助は、これを鎮圧する役目が回って来ました。この奇兵隊反乱の報で

白井小助は辞表を叩きつけたそうです。鎮圧するとは、自分たちで創った奇兵隊の兵士を

殺してしまいます。元来、律儀で理不尽なことが大嫌いな性格らしく、怒りが爆発したの

です。早速、下野し平生の田布路木飯山の麓に、塾(飯山塾)を開設し郷土の青少年の

教育にあたったそうです。
 









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第二奇兵隊幹部






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   君子可以寓意於物而不可留意於物  飯山


君子は以て物に寓意す可く而して物に留意す可からず