萩市の福栄地域の豪壮な農家を眺めると・・・ | 周南市 東郭の世界

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山口県の萩市は先ごろ世界遺産「明治日本の産業革命遺産」が5つ登録となりましたが、どうも

萩市やその周辺に惹きつけられるなにかがあると常々感じていて訪問致します。

萩城下町や松下村塾・反射炉などは昔からよく行きましたが、大板山たたら遺跡と恵美須ヶ鼻

造船所跡などは、まったく知らなかったので、世界遺産登録を機会に行って見ました。

松下村塾の処から11号線を通って大板山に行くのですが、逆に福賀から入ってもいけます。

この前、「うり坊の里」を左にむつみ村のひまわりを見学してから、11号線で萩市街に

入りました。昔で言うこの辺りのむつみ村・生雲村・福江村などは、田んぼばかりで

なにもないと思いがちですが、びっくりするほどの大邸宅があり。目の前の田んぼを

見下ろしています。田んぼは広く、それらの邸宅は後ろに山を控えた高台に建っているので

よく見えるのですが、物凄い豪壮なものです。お城のようと表現すると大袈裟ですが、周囲に

石垣と塀を巡らせ、母屋や納屋や蔵など白壁と石州瓦の赤で統一された建築は、素晴らしい

景観です。

                            《2018.8.11 周南市 東郭》


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福栄の豪壮な農家は、昔から相当裕福であったことを思わせます。

多分、米の収穫量に比例していたと思うのですが、生雲の大谷家や福栄の森田家など歴史に

残る大庄屋もあり、江戸時代から豊かであったに相違ありません。

一昨日、山口県立美術館で毛利敬親展に行きましたが、毛利藩が周防長門二カ国に減封され

石高36万9千4百石の証書を見ました。1605年の御前帳ですが、それからの毛利藩は、新田

発などで、100万石近い石高になったと言われます。防長三白(或いは四白)という殖産

に力を入れたのです。萩城下に近いむつみ村・生雲村・福江村などは、新田の開発に依って

恐らく、今日の美田が生まれたのです。当時、三白の紙は全国第一位の生産量、塩は全国二位

の生産量となっていました。従って、萩藩は自力で殖産して藩財政を豊かにし、その蓄財に

依って、明治維新時の軍艦や最新のミニエー銃など揃えることが出来ました。明治維新の

財源は、こうして防長二国の領民が作り出したものなのであります。このことは、世界遺産

云々や薩摩の密貿易の財源より尊いものであるに他なりません。何が尊いかと問われると

防長の人たちみんなが力を出し合った結果だからです。

面白い?のは太田絵堂の戦い(1865年1月)で奇兵隊・諸隊と政府軍(萩藩正規軍)が衝突

しましたが、圧倒的な兵力・軍事力を持つ政府軍に対して、少数の諸隊が何故、勝ったかと

云えば小郡などの農民が結集して、奇兵隊・諸隊側に協力したからです。それも、大庄屋が

僅か両2日くらいで、1200名を集めたという話です。

萩本隊は、これらを鎮圧するため、兵力を分散せざるを得ない状況になりました。

庄屋や農民たちが立ち上がったのは、いうまでもなく、殿さまを守るため、領地を守るため、

水田を守るためでありました。農民たちは、これまで苦労して新田開発しお米の増産を成し

遂げたという自負があったと考えられます。

江戸時代の大名は、譜代と外様ですが、幕府の力が弱まって来ると、出張殿様は逃げ出し、

毛利藩のような外様大名は、代々、自分の国を経営している社長なので、決して逃げ出したり

しない信頼性を自藩の領民から得ているのです。

明治150年毛利敬親展でありますが、それとあわせて長州のむつみ村・生雲村・福江村などの

豪壮な農家邸宅など見ると、結局、毎日生産性のある農業へ取り組んで来た人々が幸福を

掴んだということになるのではないでしょうか?

それにしても、福栄(村)という名前は、よく付けたものだと思います。