山陽新幹線上りに乗って岡山駅を過ぎると、すぐ東側の車窓に岡山城が見えて参ります。
撮影は、3月28日の9:55′ですが、この日も空全体に霞みが掛かっていて視界はいゝとは
言えませでした。いつもは、鮮明に見えるのですぐ発見できるのですが、この日は漸く見つけ
たようなことでした。
《2018.3.31 周南市 東郭》

岡山城
岡山城は、日本の城。岡山県岡山市北区にある国指定の史跡。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)。
岡山城
(岡山県)
別名 烏城、金烏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型4重6階(1597年築)
(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主 上神高直?
築城年 1346年 - 1369年(正平年間)
主な改修者 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主 宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国の史跡

岡山城
江戸時代
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。この外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれている。慶長六年には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ、これは大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった。秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶した。
慶長8年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられたが、幼少(5歳)であったので兄の利隆が「備前監国」として代政した。利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われている。慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入ったが、慶長20年(1615年)に死去した。《出典:Wikipedia》

岡山城